三七会だより113号と114号に、テーマを指定されて、「文集」がらみの寄稿を依頼され、各一編提出しました。(「御楯橋その後」参照) 実は、114号の「軍装時代の海軍軍人」を書きながら、どうしても納得できないことをひとつ抱えていました。ご承知の方から教えていただきたく、関心のある方には一緒に考えていただきたいと思います。それは、三種軍装についてです。

水 谷   弘

三種軍装について

   三七期には三種軍装を2着支給されていたが、三八期入校後、そのうち1着を同分隊三八期の対番生徒に渡すことになり、結局1着だけ持つこととなった。その1着は、乗艦実習の際持参した以外は実際に用いられたことはなかった。

 生徒は、昭和20年6月以後最後まで、儀式点検外出は「染められた二種軍装」を専ら用いた。

 生徒以外の海軍軍人は、特に同年の二種軍装期間になってからは、事実上全面的に三種軍装になった。そうしてその型式は、次のようなものであった。

准士官以上 A

下士官兵  B

 この型式は、我々が毎日目にしていた経理学校の教官等の職員、下士官兵の定員のみならず、訪問、見学先の部隊、機関等、街頭で見かける海軍軍人のすべてについて例外はなかった。我々と同時に在校した12期の見習尉官も最初からこのA型であった。

 そこで、ここからが「疑問」である。

 それは、このように統一された「軍装」でありながら「海軍服制」にその制式についての明確な規定がなかったことである。すなわち、制式図に前面(略装制定時の服制改正ではA、三種軍装制定時はB)のみが示され、背面の図を欠いていた。正衣、礼衣、軍衣(一種軍装の上着)、夏衣(二種軍装の上着)は勿論、作業服等に至るまで制式図にはその前面、背面が規定されているのに対し、三種軍装の上着である「略衣」だけ背面図がないのは、極めて奇異と言わざるを得ない。また、これは「士官」の欄に掲げられ、装着する釦を含め、候補生生徒、下士官兵もすべて「士官ニ同ジ」となっていた。

 このことについて海軍歴史保存会の日本海軍史の服制の章を執筆され、また海軍軍装図鑑を出版された柳生悦子先生に伺うと、「当時資源逼迫の下で、軍務局では陸戦服、二種軍装からの改造を想定し、何れから改造してもよいように、背面の制式規定を省略した。」とのことである。(陸戦服から改造すればA型、二種軍装から改造すればB型の背面ということになる。)

 ところが、戦時後半特に昭和19年から海軍軍人が大量採用され、三種軍装が量産され、海軍軍人の大半は新調で支給ないし配給された。「改造」できる陸戦服や二種軍装を保有していたのは相対的に極めて少数であったはずである

 昭和20年1月26日、垂水移転を前に、我々は第一衣糧廠を見学した。そこでは大量の三種軍装が生産されているのを目のあたりにした。また三種軍装の各種試作品もあった。あらゆる角度から丹念に検討された完璧な細部仕様に基づき、士官用、下士官兵用各々に統一規格で生産されたはずである。

 以上のことから、服制を所掌する軍務局のデスクと、海軍軍人の採用計画や衣糧需品の調達、補給の実態との間に大きなギャップがあったと断ぜざるを得ない。

 前記柳生悦子先生は、当時の資源事情から調達困難を示す資料が存在することを指摘される。私もそのうち幾つかを承知している。

 しかし、調達の難易は、軍装制式そのものが「どちらでもよい」の言い訳にはならない。制式の不徹底は国際法(交戦条約)違反も免れない。(便衣隊を不法とする趣旨) また大本の基準がはっきりしてこそ、避けることの出来ない場合の例外規定が容易となる。

 現実に、全軍的に服装型式の斉一が基本的に守られていながら、服制上の根拠を欠いていたことは、何とも不思議である。

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以 下 略

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