電車の中で、若者達が皆、ケイタイを開いてしきりに指を動かしているのを見て、何もすることのない連中の「浪費」行動だとばかり思っていた。事実、彼らのやりとりするメールの大半は、正直言って、「くだらない」ものかも知れない。

 しかし、私自身が強制的にケイタイを持たされ、否応なく送受信の当事者にされてしまうと、「我々こそがこの道具を使わずして何ぞや!」という気持に一変した。

「活字離れ」とよく言うが、メールは、書きことば、つまり文章による意思の表現、伝達である。しかも、極めて限られた字数の中で、用件によっては簡潔に論理的正確性が求められるほか、一字一句の微妙なニュアンスは、感情の表現も限りがない。正に、ITのもたらした新時代の「文化」である。

 ケイタイのメール文の特徴は、記号と絵文字の活用である。家族の中では、男の老人の顔一文字が私の代名詞である。孫からは「お爺ちゃん」、嫁からは「お父さん」、息子からは「オヤジ」、家内からは、二人称と三人称で違う、その一文字の呼び方が前後の文脈からピーンと響いてくる。

 ケイタイを使い始めて間もなくから、私の送信文は「名文」と言われるようになった。限られた字数でどんな言い回しをしようか、遊び感覚を楽しんでいる。

 言葉は決してマスコミだけの道具ではない。バイラテラルな会話の中でどんどん新しいことばが生まれてゆく。先端ITを若者達に独占させておけば、彼等にしか通用しない珍語が氾濫する。

 我々老人が新時代の生活に率先適応し、由緒正しく格調高い国語を解し、使いこなせる教養人としてこの世界に乗り込んでゆけば、文化の伝承と創造的発展にとってこの上ないことではないか。

 こんな心境である。

 それにしても、若かりし頃は、皆がケイタイを持てるほど空中電波が利用できるとは、夢にも思っていなかった。

 沖縄から1500キロを隔てて東京のケイタイに数秒で送信した首里城の写真は、2Lに伸ばして鮮明、六切りでもという位だった。

 この分野では日本が先端の由。60余年前に日本が先端だったら、大東亜戦争は決して敗けなかった。

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