太棹の荘重な前弾きにつれて義太夫が語り出す。

『嘉肴ありといえども、食せざればその味わいを知らずとは、国治まって良き武士の、忠も武勇も隠るるに、たとえば星の昼見えず、夜は隠れて顕わるる、ためしをここに仮名書きの、太平の世の政り事。』

仮名手本忠臣蔵、大序鶴が岡社頭兜改めの場の幕開きである。これから二段目、三段目::と進み、一一段目討入で終わる。その九段目が山科閑居の場である。

 山科の閑居を見た(三田)り大石の

  名も我の名もヨシオ(義雄)とぞなむ(会報一〇四号に既載)

 この歌は、近畿三七会が一五名で山科へ義士祭を見に行った記事(一〇三号)をみて作ったものである。(本部註 一〇四号三八・三九ページの狂歌全部、水沼氏の作。)一行の一人小川(浩)生徒は、三田生徒と共に、三七碁会の合宿には毎回関西から駆け付けてくれる、誠に有り難い存在である。

 大星由良之助(大石内蔵介のこと。忠臣蔵は幕府を憚って、時代を足利時代にとり、名前を替えている)が敵の目を欺くため、山科に居を移し、祇園へ出入りする日々を送っている(遊興の一端が七段目祇園一力茶屋の場)。そこへ加古川本蔵(梶川与惣兵衛、殿中で内匠頭を抱き止めた武士)の妻となせと娘小浪が訪ねてくる(その道中が八段目道行旅路の嫁入り)。小浪と大星力弥(大石主税)は許婚であった(二段目)が、刃傷事件でそのままになってしまっていて、しょうことないので押しかけ嫁入りに来たという訳である。

 しかし、応対に出たお石(由良之助の妻)は、もう夫は浪人の身であり、本蔵様とは釣り合わぬと断る。いろいろとやりとりがあるが、結局、小浪母娘が自害しようとしたところへ、尺八の音、「鶴の巣籠り」。加古川本蔵が母娘に知られぬよう、虚無僧に身を替え、そっと跡をつけてきたのである。となせが短刀を措くところへ、お石が出てきて、祝言させるが、その代わり本蔵の首を所望と言う。本蔵が抱き止めたため、師直(吉良上野介)が軽傷で済み、主君が切腹となった恨みを言う。そこへ本蔵が入ってきて、大星の悪態をつく。怒ったお石が槍で突きかかるが、あえなく組み敷かれてしまう。危ぶむ中へ力弥が現われ、捨てた槍で本蔵を刺す。とどめを刺そうとするところへ、由良之助が出てきて、本蔵に向かい、念願通り力弥の手にかかって本望だろうと図星を指す。

 本蔵は実はその通り、判官を抱き止めたのを悔い、この首を引出物に娘を嫁がせたいのが本心と打ち明ける。そして、師直屋敷の絵図面を差し出す。由良之助は喜び、早速、堺の天河屋義平(天野屋利平、一〇段目にその場がある)へ向かう。力弥は後から来い、この場はお石が片付けよと言って出立する。

 九段目のあらすじは以上のようであるが、親子の情、武士の義理等、巧みな心理描写と綿密な義太夫の語りで泣かせる一幕ではある。

 仮名手本忠臣蔵は歌舞伎の独参湯(どくじんとう=最後の切り札)と言われ、不況の時でも大入りになった。武士の世界の義理と町人の世界の人情とが巧みに組み合わさって、観客に感動と共感を呼んだ所以である。

 余談を一つ、冒頭の義太夫の文句、嘉肴ありといえども云々は、私は浄るり作者の創作とばかり思い込んでいたが、ひょんなことから、中国の古典、礼記からの引用だと聞き、早速、図書館へ行って調べたら、その学記篇に、

嘉肴有りと雖も食らわざればその旨きを知らざるなり

至道有りと雖も学ばざればその善きを知らざるなり

と出ていた。江戸時代の劇作者の教養に改めて感心した次第である。



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忠 臣 蔵

水 沼  靜 一