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軍装時代の海軍軍人

水 谷   弘

一 礼装と軍装

 我々が海軍軍人となったときは、軍装が最高の礼服であった。

 平時は、士官には正装、礼装、通常礼装、軍装の段階があり、軍装は礼服ではなく、日常の勤務、作業、戦闘の服装であった。

 昭和一三年六月、「支那事変二関シ当分ノ間宮中諸儀式祭典二参列諸員ノ服装ハ軍人ハ軍装、其ノ他ノ者ハ通常服」という式部長官通牒が発せられ、これに伴い、海軍服装令等に所要の改正が行われ、軍装が文官の通常服(フロックコート、モーニングコート)に相当する、最高の礼服となった。

以前においても戦時、事変に際しては一時的に正装、礼装、通常礼装(文官は大礼服、燕尾服)の使用を停止するこのような措置が取られてきたが、昭和一三年のこの改正は、「当分の間」とはいうものの、結果的に再び旧に復することのない、服飾史の変化の大きな趨勢に添うものとなった。

 すなわち、海軍服装令で、「正装を為すべき場合」(宮中儀式、拝謁のため参内、祝日の遥拝式、臨御の観艦式に参列等)、を始め礼装、通常礼装を為すべき場合(行幸の奉送迎、祝日に艦船部隊等に在るとき等)が具体的に定められていたが、それぞれの段階の軍装の佩剣、佩勲などの方式が順次定められていった。

 昭和十五年における「正装を為すべき場合」の軍装、すなわち正装に代わる軍装は、白手袋、長剣(又は軍刀)勲章(大綬章はその副章)記章全部佩用である。紀元二千六百年式典、同特別観艦式などの歴史的国家の盛典は、この完成された「軍装美学」の下で行われた。(文官の「通常服」も同じ) 正装、通常令装等がどちらかといえば外国の模倣のようなものであったのに比べ、我が国独自、日本人の容儀に即したこの「軍装美学」は、我が国服飾史上の黄金時代を築いたと言えると思う。

 ちなみに、少尉任官の際正装、通常礼装等の衣袴を一通り揃えたのは、経理学校では二五期が最後である。二五期の岡田貞寛先輩から興味深い話を直接伺ったことがあるので紹介する。昭和一三年の通牒が「当分の間」とのことなので、何時これが解けてもよいようにと、転勤の際は全部持って赴任した。正帽(コックハット)が特に嵩張るのでその隙間に正肩章を突っ込むなど、荷造りを工夫した。艦船部隊で祝日(昭和一三年天長節が唯一回と思われる。)には朝食後軍装から正装に着替え、午前遥拝式と御写真奉拝があり、饗宴後通常礼装、午後の行事、当直勤務、上陸外出等、夕食後軍装に着替えーーであった。二五期の卒業式には聖上の行幸を仰いだが、お上は通常礼装(註、これは皇室令に基づく「海軍式御服」であって、勅令たる海軍服制の衣袴ではない。)奉迎する大臣、校長以下武官職員は礼装であった。後で調べてみると、これらはすべて海軍服装令の規定どおり忠実に行われていたことになる。

 その後これらがすべて軍装に代わった。そして昭和一九年には、勲章記章がすべて略綬佩用となり、第三十七期生徒入校式、海軍経理学校創立七十周年記念式、以降卒業式、入校式、海軍記念日、その間の四大節の校長以下教官等の服装は第一種軍装、白手袋、軍刀、勲章記章略綬佩用であった。

二 候補生、生徒の軍装

 候補生、生徒には士官の正帽、正肩章の制がなく、したがって通常礼装が最高の礼服であった。生徒に礼衣袴が支給されたのは三〇期までということになろうか。

 生徒の通常礼装と軍装の違いは、先ず布地(羅紗とセルジ)、襟章の錨は礼衣が金繍であるのに対し軍衣のそれは金属打出しであった。(三七期の軍衣襟章は黄絹糸繍。これは昭和一三年一一月軍務局長通知に「軍装襟章ハ(資源節約の為)絹糸製ノモノヲ使用セシメラレ度」とある趣旨を受けたものと思われる。)其の他、三号時の一号、二号生徒からの伝聞によると、短ジャケットコートの裾のライン、正面と背後が軍衣は軽いV字型であるのに対し礼衣は水平一直線であった由である。

 候補生生徒の儀式点検等における最高の礼服たる軍装は、軍刀ではなく短剣、勲章はないので、白手袋、礼装靴着用のみが平常の軍装との違いであった。

 資源逼迫の中、昭和一九年、候補生から少尉に任官したとき、候補生の軍装のまま襟章、袖章を少尉のそれに取り替えて用いて差支えない特別措置がとられた。三四期がこれに該当するはずであるが、兵学校七三期少尉の短ジャケットの一種軍装を、当時私は見た。

三 第三種軍装と作業服

 軍装の礼服化の一方で、戦闘や訓練により適した効率的で活動的な服装が求められる。昭和一七年に略帽、略衣袴のセットからなる「略装」が制定され、戦地及び戦地への往復に用いられることになったが、これが翌年「第三種軍装」として軍装の一に加えられた。そうして海軍軍人の大量採用に伴い一挙に量産され、昭和一九年以降任採用の海軍軍人には専らこの三種軍装のみが支給乃至配給され、この時期採用の軍人で一種軍装、二種軍装、外套等の一揃いが与えられたのは海軍生徒のみと言ってよいと思われる。

 昭和二〇年の夏季、二種軍装着用期間に入ってからは、事実上全軍的に三種軍装に統一された。終戦の大詔を拝する海軍士官の正装に代わる軍装は、三種軍装に白手袋、軍刀、略綬であった。ただ生徒及び軍楽科だけは、儀式点検では、白の布を緑灰色に染めた二種軍装を用いた。三種軍装も支給されていたが、正規に用いることは殆どなかった。

 服制で定められた作業服は、三種軍装と同型で、釦は金色金属の代りに服地と同色、襟章の地も同色、これが違いであった。経理学校生徒では、三七期以下がこの作業服を支給された。三七期入校時三五、三六期が校内で着用していたのは、「陸戦事業服」である。平時は学科の授業等日常軍装を用いていたが、軍装の礼服化に伴い、軍装を用いるのは儀式、点検、外出時に限られ、授業、訓育、食事、甲板掃除等校内の生活はすべて作業服となっていた。

 上述の通り、軍装は、礼服化に伴い、一部は作業服に代替したとは言え、儀式を始め、日常勤務から戦闘、訓練、作業の幅広い使途をもつものとなった。特に三種軍装が登場してからは資源の逼迫による素材の劣化に加えて激しい戦闘や訓練による酷使から、くたびれた、よれよれの「軍服」イメージがドラマの史料考証家の脳裏を支配し、後世に影響する傾向が憂慮される。補給を絶たれた陸戦の最前線はともかく、服装容儀の端正は海軍軍人の本領であり、訓育の要点である。同じ軍装でも、日常使用の軍装にそのまま勲章を着けて宮中に参内などということはあり得ない。軍衣袴を二着交付されたと仮定する場合、その一方は、何時でも儀式、点検に即応できるよう手入れされていたはずである。分隊点検の緊張を想起するとき、服地の材質など言い訳にならない。遍く青年の憧れの的であった海軍軍装の美学、それを裏付けた海軍精神の真髄を、正しく後世に伝えたい、というのが私の信念である。

[参考]

海軍服装令    海軍服制           文官等

正 装      正帽 正肩章 正衣 正袴   大礼服

礼 装      〃  〃   礼衣 礼袴   通常礼服

通常礼装     軍帽     〃  〃    通常服

第一種軍装    〃      軍衣 軍袴   平 服

第二種軍装    〃(日覆)  夏衣 夏袴   〃
略装―

第三種軍装    略帽     略衣 略袴   〃

昭和一三年六月以降

軍装(正装、礼装、通常礼装   通常服(フロックコート

   を為すべき場合)         モーニングコート)

                国民服礼装(昭和十五年)

軍装(其の他の場合)      平 服

                国民服(甲号、乙号)

  正 装     礼 装    通常礼装    軍 装

  大礼服    通常礼服     通常服     平 服




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