教 授 の 思 い 出

水 谷   弘

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 海軍経理学校の教官、教授陣は最高の陣容に恵まれ、法律学、経済学等の基本学を担当する嘱託教授は東京帝国大学を始め我が国を代表する碩学であり、数学、外国語、物理化学、哲学等の普通学を担当する文官教授も天下に誇る一流のレベルであった。

 全教官について、各人がそれぞれに薫陶を受けた思い出を記録に留めたいところであるが、私はここで、嘱託教授の代表として民法の我妻 栄教授、文官教官の代表として国語の林 大教授のお二人だけの名を挙げさせていただく。

 民法の授業の初日、私がいきなり当たって立たされた。

「民法とは何か?」 たまたま出版されたばかりの「民法大意」上巻が教科書として配布されており、温習時間に最初の数ページに目を通していたので、その範囲で何とか答えた。

「うん、仲々要領よく答えた。しかし、一口に民法とはと聞かれて、簡単に説明できるのは、民法を知らない証拠だ。だからこれから勉強するのだ。」今思えば当然のことだが、何事も、究めれば究めるほど奥が深い。解れば解るほど次の疑問が出てくる。すべての分野に共通する入門の心構えであった。

 途中は飛ばして、垂水の二生講堂での最終講義。

「これまで民法を勉強してきた。しかし、個々の条文はどうでもよい。要は、調べれば解るという自信、実力と、調べずにはおかないという熱意だ。」

 私は戦後、法律学の学科は全く履修(単位取得等)していない。にもかかわらず、曲がりなりにも行政官を勤め上げただけでなく、最高裁判所に派遣され、法曹無資格者ながら裁判官の方々と共に、引け目を感じることなく仕事ができたのは、あの時の我妻教授の一言が、私の魂を打ったお蔭と思っている。

 我妻教授の謦咳に接したのは海軍経理学校の教室においてのみであったのに対して、国語の林 大教官には戦後、公私に亘り度々の教示にあずかった。

 教官の経理学校の講義は、増鏡、勅撰和歌集の古典から、国語学、方言、特に岳父で恩師の橋本進吉博士の国語学史上最高の金字塔とされる「上代国語音韻の研究」の解説、森鴎外の興津弥五右衛門の遺書に至るまで広範多肢に及んだ。

 戦後は、文部省視学官から国立国語研究所長にかけて、また国語審議会委員として、当用漢字、現代かなづかいを初め、現代国語表記の基準の策定、大規模な辞書の編纂からワープロ登録文字の選定まで、国語に関する施策のすべてにわたって重要な役割を担われた。

 私がお世話になったのは、官報告示などの用語、用字の問題(現代国語が定着するまでにはこのような事例の集積があった。)を初め、統計研修所をお預かりしていた頃、再三特別講演をお願いしたこと、学会の連携等である。

 国語と統計と何の関係かと言われるかもしれないが、科学的言語学の研究にとって、統計処理の技法と哲学は不可欠である。

 古事記の冒頭、戦前のテキストは、古訓本の「たかまがはらになりませるかみのみなは」であったのに対し戦後のそれは「なれるかみのなは」となっている。敬語の接頭語や助動詞を示す文字は、ここの白文には見当たらない。「あらゆる先入観を排除し、ありのままの材料から、研究を出発しなければならない。」と教官もかねてから言っておられた。これに対し、私は「坐」(ます)「御名」(みな)の文字の用いられている箇所の例から当然類推して、本居宣長の古訓本が、あながち宣長の盲目的敬神思想からとは言い切れない科学性があるのでは、と申し上げたところ、この着想を大いに評価していただいたことが、思い出として残っている。

 ここで、林教官が主導された戦後の一連の国語政策が、決して誤っていなかったことを、強調しておきたい。特に終戦直後の「現代かなづかい」は、福田恒存氏を代表とする歴史仮名遣い派に対抗して、ローマ字派やカナモジカイを含む無責任な表音主義者たちが強行し、国語の伝統を破壊したとする誤解である。

 歴史仮名遣いといっても、国語は時代と共に絶えず変化する。過去のどの時点の仮名遣いをもって規範標準とするかは、決め手がない。契沖は藤原定家よりずっと後世であるが、仮名遣いのパターンは契沖の方が古く、定家の方が新しい。

 終戦直後の占領下の時代だったとはいえ、国語にとっては、このような混乱を整理し、現代文の確固たる正字法(オーソグラフィー)を確立すべき好機であった。表音に近い統一といっても、「多い」(おおい)、「遠い」(とおい)など旧仮名遣いを知らなければ書き分けられないもの、助詞の「を」、「へ」は、国語の今後を見越して例外とされた。

 当初は公用文、教科書、新聞を中心とする制限的な規準であったのが、次第に国語の自由な表現力を助長する方向に発展し、今日の定着を見た。日本語の歴史上今日のようなオーソグラフィーを持った時代はかつてなく、方言のような地域文化のアイデンティティー化の時代にあっても、共通の基盤をしっかりと提供している。古文や擬古文の研究成果も現代文で表現されることにより、伝統を破壊するどころか、より深い研究を促している。

 最後まで研究の情熱を燃やしておられた教官が逝かれて一年余、情報化時代の国語の発展を、泉下でどのように見ておられるであろうか。

(付記) 昭和59年1月17日、学士会館において、「林 大先生の叙勲をお祝いする会」が、国語国文学界を挙げて盛大に行われたが、その模様は、三七会だより56号の小西博雄君の報告に詳しい

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