寄 稿 文

三七会だより第113号所収

人材確保に努めた海軍
 大量採用の生徒に、当時最高の教育を    佐 藤 順 一

教授の思い出                水 谷   弘

三七会だより第114号所収

軍装時代の海軍軍人             水 谷   弘

忠 臣 蔵                 水 沼 靜 一

人材確保に努めた海軍  

大量採用の生徒に、当時最高の教育を     佐 藤 順 一

文集「御楯橋をわたって」の序文にもある通り、私達三七期は、海軍経理学校史上、特異のクラスであったと言えよう。一つには、初めて五〇〇名もの大量生徒が採用されたクラスであり、いま一つには、諸先輩と異なり、築地校ではなく品川校入校だったが、築地校以来の伝統の教育方針に則り、あの急迫した戦局の下で、終戦直前まで続いた高名な教授陣による最高の講義を始め、すぐれた教官方による教育訓練等、「よくぞここまで」と感銘、感動を覚える処遇をうけることができたことである。

 更に付け加えれば、本土決戦も間近と言われた昭和二〇年五月という時期での数日間の乗艦実習という貴重な体験、しかも呉軍港内に目を転ずれば、被弾擱座している艦艇が殆どで、健在なのは私達の練習戦隊のみという惨状に、「戦い今や利非ず」と感じたが、そのような苛烈な状況下で、伝統の乗艦実習という思い出づくりをさせて頂いたことになる。

このように、五〇〇名もの大量採用はなぜ、しかも、その大量の生徒に対し、当時において考え得る最高の教育訓練を施されたのはなぜ―ということが、私にとって、長い間の疑問であった。

この疑問は、戦後も久しく経過した平成七年に至って氷解した。それは、三九期の諸君が同年刊行された在校記録「海軍・昭和二十年」によってである。同誌二九ページ以後に紹介されている「追想海軍中将 中澤佑」には、当時の人事局員寺井義守中佐が寄稿された文章があり、これを読んだ私は、目から鱗が落ちた感じであった。

ここに、寺井中佐の「中澤人事局長の人的軍備」なる寄稿文の一部を、同誌から引用させて頂く。

 それは多分昭和十八年の初め頃であったと思いますが、局長は兵学校生徒の採用をも担当していた私に、「大臣は今年度採用の兵学校生徒の員数を三〇〇〇名(従来は一〇〇〇名程度)位に増員してはどうか」とのことであった。これをどう考えるかと話されました。私は、これを他の局員たちにも相談したところ、どの局員たちも、それは困ると反対の意見であった。

 その反対の理由は、今から採用した兵学校生徒たちは、その学業を了えて部隊に配属される時までには恐らく今次の戦争は終っていて彼等は戦争の役には立たないだろうが三〇〇〇名もの生徒を採用することになれば、現在前線で働いている多数の有能な士官を彼等の教官として内地に呼び戻さなければならないので、これは、わが方の戦力の低下になるというのでありました。

 中澤局長は、この反対意見を聞かれて、それも一理あるので大臣に申し上げようといわれて室を出て行かれたが、しばらくして室に戻ってこられて私たちに、大臣の御意見は、まことに立派であると思われるので、私は生徒三〇〇〇名採用の大臣の御意見に賛成を申し上げてきたので、諸君もどうか承知を願いたいとのことであった。

 中澤局長が申されるには、反対意見を一応大臣に申し上げたところ大臣のいわれることには「そんなことは私は充分に考えての上のことである。しかし、いま、兵学校の受験生たちの質を見ると日本全国の中学校から成績の上位の秀才たちが皆兵学校を受験している由聞き及んでいる。彼らこそ正に大和民族の宝であろう。しかるに陸軍は、この戦争は本土決戦の最後まで戦うといっているが、彼らも、ほっておけば、そのうち鉄砲をかついで戦場に出て死ぬることになるであろう。それで彼らを今のうちから海軍にとっておき戦争中は彼らを海軍に温存しておこうではないか、彼らこそ戦後の日本国再建のための大切な宝ではないだろうか」とのことであった。

 中澤局長が申されるには、反対意見を一応大臣に申し上げたところ大臣のいわれることには「そんなことは私は充分に考えての上のことである。しかし、いま、兵学校の受験生たちの質を見ると日本全国の中学校から成績の上位の秀才たちが皆兵学校を受験している由聞き及んでいる。彼らこそ正に大和民族の宝であろう。しかるに陸軍は、この戦争は本土決戦の最後まで戦うといっているが、彼らも、ほっておけば、そのうち鉄砲をかついで戦場に出て死ぬることになるであろう。それで彼らを今のうちから海軍にとっておき戦争中は彼らを海軍に温存しておこうではないか、彼らこそ戦後の日本国再建のための大切な宝ではないだろうか」とのことであった。 

 この次元の高い嶋田大臣や中澤局長の御意見に対しては素より反対を唱えるものは一人もなく人事面や施設面等の幾多の困難をのりこえて兵学校生徒を採用することになったのである。これが昭和十八年十二月入校した第七十五期生徒三五〇〇余名であった。

 そうして、これらの人たちは嶋田大臣や中澤局長のご期待にそむくことなく、日本の各界で活躍して日本国戦後の復興とその後における躍進的発展に貢献したのであった。(原文のまま)

 海軍生徒の採用計画は、正式には軍令部と海軍省との協議により戦局の状況等を勘案のうえ決定されるところであろうが、増員論議の根底に、海軍首脳部の、戦後の再建復興まで視野に置いた、先見性のある別の側面があったことを、この文章は物語ると言えよう。

この増員論議の結果、海軍三校の入校人員は次のようになった。

 海兵七四期1028名に対し 同七五期は3480名 

 海機五五期 320名に対し 同五六期は 500名

 海経三五期 105名に対し 同三六期は 250名

(上の入校人員数は、三〇期の先輩方の文集「南溟北涯」三三一ページ「海軍三校 入試状況」による。)

翌昭和一九年以降、海軍経理学校においては、三七期と三八期が三六期の二倍の500名ずつ採用となり、更に予科生徒として三九期600名が採用されたのも、戦後再建復興の人材確保という、右の増員論議の延長線上にあるものと言って過言でなかろう。

これで、大量生徒採用の事情も、それら生徒に対し終戦直前まで至れり尽くせりの教育訓練を施された理由も、了解できる。教育ばかりでなく、趣味・教養を高めようとの親心からか、名優の来演による歌舞伎の鑑賞など、得難い経験も想起される。

 終戦後においても然り。最近、足立順二郎教官からのお電話で、「終戦の詔勅を奉ずるや、紺野校長は、予科生徒を含め一八〇〇余の若者を預かる立場で、悠揚迫らず、『承詔必謹、冷静沈着』を呼びかけられ、数日のうちに『全生徒の賜暇、帰省』を指示し完遂され、翌九月に入ると早速『進学・就職により国家再建復興の人材たれ』と通達された見事な決断とお手際のよさに、ただただ敬服するばかりだったが、戦後久しくして、佐藤君と同じことを承知し、校長も海軍首脳部として、生徒諸君への限りない期待と確信をいだいておられたからこそと、理解できた」とのご意見であった。

 それにしても、海軍は、短現(二年現役)の制度の創設といい、本稿で取り上げた海軍生徒採用人員の増員構想といい、予科生徒制度新設構想といい、人材確保に格別の配意をされた、そのすぐれた先見性には、全く脱帽であり、その方策のお蔭で、海軍に身を置かせて頂いた感激と誇りを深く胸に刻んでいる次第である。

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