三七会のあゆみ

 

一  発 足

 三七会は、昭和三十七年三月十七日に呱々の声を上げた。この日有志八名が、東京都新宿区山伏町の「むさし乃」に集い、三十五期,三十六期各三名の方々と、懇親の席を張っていたとき、三十七期の会を立ち上げようという話が出て、衆議一決、早速創立総会開催の協議に入った。正に日付も三十七期を指すという、誠に肯綮に中った発議だったといえよう。    

 協議の結果、第一回総会を六月一日に開催と決定、有志が世話人となり、夫々伝手を手繰って参加を要請する。当日、会場の「むさし乃」に集う者、会員二十八名,ゲスト五名。中に吉田満氏あり、戦艦大和の話を傾聴、この会の発足に相応しい門出となった。

 また、近畿も立ち上がる。世話人代表下阪、七月十四日には早くも結成総会開催。参加者は二十二名である。続いて、第二回を東京は同年十二月一日、近畿は同月八日に開催、実行力の確かさ。

 

 題 三 七 会         昭和三十八年三月

        廣 水  紺 野 逸 弥   生民一億是同胞 生民一億、是れ同胞。

況共死生親自膠 況や死生を共にする、親しみ自ら膠(カタ)し。

温故知新三七会 故きを温ね新を知る、三七の会。    

披肝胆讃水魚交 肝胆をひらいて、水魚の交りを讃えん。

 

右は会報第二号(三十八年三月八日発行)に掲載された紺野校長からのお祝いの漢詩である。また、三七会発足の記事が「水交」に載った。

  

        二  総 会

 総会は、当初年二回のペースで、むさし乃等会場を移しながら開催され、浴恩会後にも実施されてきた。大略は別表の通りである。また、月例会も持たれたが、これについては別記する。

 昭和四十九年、三十五期と連合で熱海で総会が行われ、翌五十年には神戸、六甲ホテルでも開催されたが、概ね東京か近郊での総会であった。地方開催、宿泊と観光のスタイルが定着するのは、五十三年の伊東総会からである。年一回の総会・旅行と浴恩会後の会のスタイルは、以後現在に及んでいる。浴恩会後の会は、昭和六十年以降は大会として、総会会次から外した。

 顧みれば、よくも日本全国を駆け巡ったものである。順次紹介すれば、伊東以降、犬山、新潟、須賀川、広島、神戸、青森(一部北海道へ)、宮崎、沖縄、石和、徳島、大阪、仙台、長崎、名古屋、秋田、山口、京都、舞鶴、高知、長野、銚子、岡山、伊勢。そして幾度か東京。勿論、観光で周辺地区に足を延ばしているので、ほんの数県を除いて全国に足跡を残したことになる。総会の掉尾はやはり東京。定例総会の幕は、六十八回の東京総会(平成十七年五月十一日)で締めくくった。

 三七会発足以来、総会はじめ後述の例会や、別して会報について、

継続は力なりの情熱を注いでくれた、故日下信之君の渾身の傾倒努力を、会員一同、深甚なる感謝の念とともに忘れることができない。

彼の献身的な三七会への愛着が、戦後六十年の全会員の流転を繋ぎとめ、四百九十七名の整々たる三七会を確固たるものに仕上げたのである。そして彼の卒去後、幹事交代で新生した三七会は、さらに

強い絆で固く結ばれることになったのである。

 定例総会は終会となったが、臨時に開催の路は開かれている。

      

  三  本部体制

 日下君の死去に伴い、折からの京都総会で、会の新生が決められた。その後、体制を整備し、幹事も正副代表幹事、事務局長、会計幹事の本部幹事と、東京三七会幹事に執行幹事として協力願うという体制も整い、鋭意会務を遂行してきた。

 その業務は、月例幹事会の開催、体制の整備、情報の開示、総会・大会の開催、会報・ニュースの発行、名簿・文集の刊行等である。

 加齢により会の在り方を再検討の結果、平成十八年からは幹事体制の縮小、業務の簡素化に踏み切る。

      

  四  地区三七会

 総会とともに例会も発足した。昭和三十七年七月九日、東京「うしおクラブ」での世話人等五名により初会合が持たれた。以後月例で開催。逐次一般会員も参加して、活況を呈するようになり、東京三七会へと発展した。

 日下君の肝いりで会場の設定や変更があったが、青山での会合の際(日時不明)、同君の負担軽減等を考慮、幹事を定めて運営することとし、日下君には会全般と総会、会報発行の任に当たってもらうこととなった。会場は神田の「あけぼの」で、同所が改築時以外は現在まで常打ちの会場である。幹事は、当初二〜三名を在京会員より逐年選任したが、五十八年から、四個分隊毎に一名、計四名の幹事が交代で執行することとした。平成九年以降は二年交代になる。 現在、年三回(開催日は七日)の例会を「あけぼの」で開催、春には花見会を実施している。十七年には会長を選任した。

 一方、近畿には本会創立と時を同じうして、近畿三七会が誕生、幹事の不抜の団結努力で、現在も、他地区のゲストも交えて、盛大に会合が持たれている。幹事は、会長を含めて五人委員会と年次幹事二名。隔月例会、年一度は旅行付きである。開催日は十七日。

 また、中部三七会は名古屋を中心に近郊会員で毎月例会、年一度の総会(他期生徒と合流)実施。幹事は一名。開催日は二十七日。

 九州三七会は年次例会を実施していたが、広域でもあり、昭和五十六年から九州,山口地区の全海経の会と合同で実施。平成十六年

解散となる。今後単独で年次大会再開予定。幹事は現在二名。

       

五  会 報

 会報は、総会発足と同年の昭和三十七年九月十七日発刊され、以後、年一〜三回のペースで発行、現在一一一号に至る。内容は、会員周知事項、総会・大会案内と報告、各地三七会例会・同好会・分隊会レポ、寄稿・便り・消息、訃報・追悼文、本部便り等である。会合等のレポは、紙幅を厭わず、臨場感を高めるため、発言内容等を可能な限り再現させている。会員以外の各期先輩、後輩の一部の方へもお送りしている。

平成十八年度からは簡略化へ進まざるを得ないことになる予定。

 

六  結 び

会結成以来、紆余曲折の四十余年であったが、共に御楯橋を渡って入校し、その時期得難かった学業を修め、凛冽な訓練に鍛えられた深い縁が、固い絆となって、三七会は日々生々と歩んできた。

 しかし、歳月は人を待たずとか。戦後六十年の加齢の重みは、最早従来並の活動を続行することに無理が出てきている。来年以降は各地区三七会や、同好会,分隊会等の活動の活発化を図ってゆくこととなる。しかし、三七会は最後の一名になるまで、海軍生徒たりし誇りを胸に、確然と存続し続けるであろう。

 

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