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二号生徒となる

三〇日 夜 講堂にて新一号生徒による「激励」のストームを受け  る―「あくまで男らしくあれ」と。

三一日 訓育時、新分隊監事訓話。移転整備作業。

    夜、指導官訓話、三七期学年会。

四月

 一日S 夏季日課施行。屋上で東に向かい勅諭奉読。

 二日 民法 我妻教授最後の講義。「諸君は授業時間は少なかったかも知れぬが、法律について、調べれば分かる力と調べずには置かない熱意を身につけたはずである」。

 五日 教頭桑原秀雄主計少将・三宅隆教官・佐々木主計大尉退庁  披露。新教頭島津惣次主計大佐着任披露。(五月に井上健男大佐が教頭兼監事長となる)。

   次に以後の教官等の異動をまとめて記載。

  四・七足立順二郎教官・土岐政蔵海軍教授着任、四・一二前田  孝充郎教官退庁、富田岩芳主計中尉着任、四・一八計見良雄主  計少佐着任、五・一二白石敬次郎主計大尉着任 五・一七武田  教授着任、五・二一池田鶴喜教官退庁、加賀誠少佐・須藤吉樹  主計大尉着任、五・二八渡辺主計大尉退庁、高橋主計少尉(庶  務主任)着任、七・一一中川技術中尉・高橋元主計少尉退庁、七・一二田中重蔵教官退庁、七・一六浅岡泰昌主計大尉着任、七・二一石井次男教官・小池英作教官退庁、菅原中尉・中島教授着任、七・二三加賀誠教官退庁、七・二四小野基治副官・舛田正雄教官・牛尾朗教官退庁、七・二五山口卯三郎教官、副官補職。

 六日 会計学、土岐政蔵教授に替わる。

新三号を迎える

四月三日S 神武天皇祭。三八期生徒採用予定者続々と着校。我々  は「生徒心得」の研究、彼らに模範を示すための「巡検用意・総員起こし」の動作復習などに余念なし。

 三日〜九日 寝室整備作業、二段ベッド搬入の重労働。

 五日 三八期採用予定者五百二十七名全員着校、一号生徒授業な  く新入生出迎え。

 七日 本日昼食から新三号と生活を共にす。自己紹介、指導員指  名。三号時代とは異なり、二号は自主性を持たねばならぬ、三号の指導にも気を配らねばならぬ……気苦労の多い日々が始まる。

  夜 映画「ニュース・被災地御巡幸」、「陸軍」

  以後、四・一四「日本ニュース」、「決戦の大空へ」、「動画:桃太郎・海の神兵」、四・二一「特別攻撃隊」、「紅顔鼓笛隊」、    五・一八「世界に告ぐ」、五・二九「化兵戦・対戦車戦闘」、「マンガ」、「海軍経理学校」、八・四「日本剣豪伝」

 八日S 〇八二〇出発湊川神社参拝、帰途神戸市の空爆被災状況  視察、惨澹たり。一一〇五須磨にて解散、自由行動。

 九日 三八期入校特別日課開始。

一〇日 〇八〇〇軍艦旗掲揚 第三八期生徒入校式。

  分隊編入、各分隊概ね一号八名、二号・三号各一五〜一七名。

一二日 瀧明指導官講話、「生徒服務綱要」。

一四日 校長から「戦局ニ関スル海軍大臣訓示」伝達。

一五日S 佐久間艇長殉難の日、朝拝後十三勇士を偲び軍歌。

一六日 指導官訓話、「生徒服務綱要」。

一七日 昼、土俵開き。訓育科目に相撲加わり、本式の稽古まわ  しを締める。「押さば押せ、引かば押せ、押しの一手で突きま  くるのみ」と石井指導官。

一九日 井上隊監事訓話、「三七期、過去の事件に拘泥して意気消沈する勿れ、現在を立派にやり抜くことが肝要、元気を出して学術訓練に没入せよ」と。

二二日S 本日から外出区域、明石まで許可。

二三日 生徒呼集、容儀点検。チェスト搬入、二人に一個渡る。

二四日 生徒呼集、ソ連軍ベルリンに突入を聞く。

二五日 三八期入校特別日課終了、軍容査閲陪観。閲兵・分列行進・体操、見事な出来栄え。隊監事・指導官から「三号の本日の成  果は二号に負うところ大なり」との言葉を頂く。

  昼、大阪海軍軍楽隊の演奏を聴く。

二四日、二六日、二八日陸戦特別講習・田中教官。これに関し、二八日校長から、「最悪の事態に備え、待つあるを恃むの態勢を整えんがためなり」との訓示あり。この後、五月下旬の陸戦総合演習に至る間、訓育は陸戦一本槍の観があった。

二九日S 天長節。「偽海軍生徒逮捕」を聞く。 

三〇日S 靖国神社臨時大祭。分隊行軍(行き先は分隊別)。

五月

 一日 日課改正 〇五〇〇起床、早寝早起きの生活となり、朝の 

習時間設けらる。 

神戸経大・俵教授による憲法開講。ドイツ遂に降服の報。

 二日 訓育時、聯合談話会。東京美術学校松田教授の書道講話。

乗 艦 実 習

 二日 石井指導官訓話、「既に習得せる軍事学の知識を実物により、身につけるは勿論なれど、一層重要なるは二号のみの自律に徹し、真の海軍生徒に没入する神機たらしめることなり」と。

 三日 夜、乗艦実習に出発。

  呉軍港に停泊中の練習艦・出雲、八雲、磐手に分乗して、艦上  勤務、艦内諸設備、在港他艦船、陸上の主計科関連部署等を見  学・体験し、併せて江田島の兵学校を訪問する。

  練習艦とはいえ、れっきとした戦歴を持つかつての主力艦にお  いて、帝国海軍の厳正な組織運営に接する機会を得た。

  (以下の詳細日程は、磐手乗艦生徒の記録による)。

 四日 糸崎にて乗り換え、早朝呉着、海仁会にて小憩、洗面等。

   呉鎮守府伺候、森島経理部長訓示。桟橋から「磐手」乗艦、   

清水艦長訓示。午後、吊り床訓練、艦内旅行。夜、指導官附・   衛兵教員説明、二二〇〇吊り床で就寝。

 五日 〇四三〇起床、甲勤務開始、副直将校勤務並びにその伝令、 午前繋留替作業見学、真田中尉・一般説明。午後、主計科事   務室・烹炊所・戦給品配給状況見学、衛兵・弾薬庫番兵勤務見学。

 六日 夜半空襲、〇五三〇生徒起こし、〇七〇〇石炭搭載作業見学。長官公室からガンルームまで艦内公私室見学、自由研究。   午後通信科見学。夜、航海士から航海術一般説明。

 七日 洗濯日課見学、砲術士から砲術一般説明、教員から九六式   二五粍三連装高角砲説明。午後、定期(カッター)便乗往復、   繋船桁渡り・マスト登りを体験、掌経理長から主計一般説明。   夜、巡検随行。

 八日 〇三〇〇生徒起こし,烹炊配食見学、呉軍需部見学、第四課長橋本主計大佐訓示、主計科関係倉庫見学、午後潜水艦イ五八・イ三六見学。

 九日 〇七〇〇戦闘烹炊見学。〇八〇〇旗艦出雲において呉練習   戦隊司令官訓示、一〇〇〇戦闘教練・戦闘配食(終わって汁粉)、一四一〇空母「海鷹」・駆逐艦「響」・第十九輸送艦見学。夜、艦長臨席、研究会。

一〇日 〇六三〇艦長訓示をもって実習終了、〇六五〇退艦、総員   出雲に集合、〇九〇〇江田島兵学校到着、直後空襲、長時間退避、一四〇五〜栗田健男兵学校長訓示、兵学校二号生徒(コ   レス)の案内で校内見学、合同軍歌演習(円陣)、晩餐交歓。   一八三〇同校発、二三一五呉発、帰途につく。

一一日 朝、帰校。朝食後、空襲警報、総員退避。午前中身回り整頓。午後、日課表通り。

一三日S 本日から食堂山の下に移転、席広くなるも往復に不便。

 

戦備と学業の両立

一四日 六月一〇日から学年考査施行の旨発表、指導官訓示、「考査は生徒の戦闘なり、必ず勝て」と。

  朝食中空襲警報、退避。毛布乾し方、空襲で取り込み、また乾す。

二二日 急速戦備強化作業始まる:防火池構築、木材・セメント  荷降ろし・荷捌き、退避壕(蛸壺)掘り、松材運搬、用具整備、  機銃陣地構築、分哨壕掘削、自動車掩体壕構築等。

  以後八月に至るまで一・二部、三・四部それぞれ十五回、訓育  時間がこれらの作業に充てられた。

二四日 明石で三カ月ぶりの短艇訓練(三・四部……一・二部は二  八日)。

二五日〜二六日 陸戦総合演習 〇七三〇陸戦隊用意、一・二部  は攻撃軍となり舞子方面から三・四部の防御陣を攻撃する想   定。

  攻撃軍:舞子公園駅まで通常行軍、昼食、一二三〇行動開始、  奥池まで警戒行軍、総員斥候となりABC陣地斥候、舞子にて  夕食、一八三〇行動開始、多聞寺に集結、分隊毎に発進、〇三  四五AB陣地へ突入、演習終了。

  防御軍:午前中、地形・状況の説明、午後、陣地構築。夕闇迫  る頃、斥候の派遣、挺身隊の出発等活気を呈す。夜半、攻撃軍の一部陣地に突入し来たり、白兵戦となる。〇四〇〇演習終了。

二六日 朝食、バス、一四三〇まで午睡。一五三〇〜大掃除、    二〇〇〇就寝。

二七日S 海軍記念日

  記念行事:三千米継走、戦場運動、棒倒し。昼、赤飯膳。

  大阪海軍軍楽隊演奏。

二八日 分隊対抗排球試合(一・二部……三・四部は三一日)。

  考査に備え、本日から二号のみ温習時間二一三〇まで延長。

二九日 第二種軍装交付される。スタイルは従来通りの短ジャケ  ットだが、時節柄あの眩しげな純白ではなく褐青色。

六月

 一日 〇九四〇〜一一〇〇阪神大空襲、B二九が四百機。総員退避。

 二日 石井指導官訓示、「一号生徒乗艦実習留守中、二号は謙虚を旨とし生徒館を立派に維持せよ」と。

 三日S 生徒集会所開設。

   (当時利用した倶楽部としては、住友別邸(もと有栖川宮邸・  

現舞子ビラ敷地内):二〜三百名収容、直木氏(食糧営団理事)

邸、田村氏(衆議院議員)邸、有馬氏(米穀問屋)邸:各五十

〜八十名収容、があるが、これらが上記集会所に該当するのか、

別に学校付近に開設されたものなのか不詳)。

 四日〜一〇日 一号生徒乗艦実習のため不在。二号が週番生徒を   

代行し、生徒館の自治に当たる。在校中只一度一号の気分の片

鱗を味わう。但し、三号に鉄拳はご法度?。

 四日 訓育時 現地自活のための多聞地区荒地開墾。以後随時農   

耕作業あり。(三・四部は六日から)

   一七一〇〜校庭にて元教官高木彰主計中佐(戦死)告別式。

 

空襲熾烈化のなかで勉励

 五日 朝、温習中戦闘用意、敵二百余機阪神地区に来襲、東垂水  に投弾、生徒半数街に出動し消火、防護に当たる。

 八日 明石にて短艇、時化で波高し、後半は港内(二部……一部  は七日・三部は九日の予定なりしも、共に警報発令で中止)。   

一一日 学年考査始まる。

一一日:論理学  一三日:経済史  一六日:歴史

  一八日:会計学  二〇日:外国語  二三日:国語

  二五日:数学   二七日:軍需品学 三〇日:経済学

  七月二日:力学   四日:物理    八日:化学

一五日 神戸経大・谷口教授による民法開講(一・二部)。

一六日 一・二部 戦備作業の途中、牛の屠殺解体見学。

    三・四部 陸戦総合演習。   

  以後の陸戦総合演習 

  一・二部:六月三〇日、七月一四日、七月二八日、八月一一日  

三・四部:六月一六日、七月八日、(七月二一日)八月四日

  手榴弾投擲及び直突射撃、夜間接敵、対戦車肉攻、挺身斬込等、  本土決戦を意識した実戦さながらの特訓。

一八日 故閑院宮戴仁親王殿下国葬日、終日半旗の礼。

  本日から生徒館内外を問わず、階段以外は(駆足でなく)堂々  と闊歩することとなる。

一九日 小銃射撃競技(一・二部……三・四部は二一日)。

二一日 茶珍教授による栄養学開講。

二二日 夜半警報、起床後防衛訓練、課業整列時空襲、明石に投弾。  本日授業なし。

二六日 課業整列時空襲、明石に投弾。

  「沖縄本島軍官民玉砕」達せらる。

二九日 夜半〇二〇〇〜〇四三〇和歌山を中心とする空襲。防空  壕で寝る〇六四五まで。

七月

 二日 日課改正、本日から上衣を脱す。

  夕 伊藤八段の一撃必殺法の講話及び実習。

 三日 夜半空襲、〇〇三〇頃戦闘用意。防空壕で寝る〇五三  〇まで。

 四日 夜半空襲、〇〇〇〇頃から三時間以上姫路大規模空襲、   空壕で寝る、〇五四五まで。

 五日 防衛部署教練査閲。

 七日 前夜二三〇〇頃から本朝にかけ明石市焼夷弾により相当の被害を蒙る。

  大阪警備府参謀長(小野少将)訓話、「近き将来,修業中の生徒と雖も本土決戦場に要請あるやも知れず、平素鍛えし腕を発揮すべし」と。

 八日 午前中課業。本日の化学考査を以って一カ月にわたる考査終了。

 九日 農耕突貫作業始まる。炎天下で多聞農場開墾、原則全日、  二、三号のみの作業。

    一・二部: 九日、一一日、一三日、一七日、一九日        

三・四部:一〇日、一四日、一六日、一八日、二〇日

一〇日 海軍大臣訓示伝達:徹底戦力化について。

  敵艦載機(小型機)多数来襲し始める。

一二日 生徒館点検。

  佐藤指導官訓話:橿原分校予科生徒(将来の我らの三号)の

  現状について。

二〇日 夜半空襲三時間、配置に就く。〇七〇〇起床。 

  入校以来我々のレベルアップに心血を注いでこられた石井主任指導官転勤となり、最後の訓話、「一、何事にも自信をもって当たれ。二、自分の立場に優越感を持て。三、本日只今に全力を尽くせ」と。後任の主任は佐藤指導官。

二二日S 特別大掃除、校内点検。養正館プールにて水泳検定。

二三日 教頭訓話、「生徒の教育はどこまでも続ける」――学校  である以上、最期のときまで勉学に励むのが生徒の本分」と  いう決意と意欲は我々としても当然。

  夜、三七期学年会。 

二四日 〇五四〇〜〇八四〇敵小型機多数来襲、〇九四〇〜一二四  〇大型機来襲、未曾有の長時間空襲対応。   

二五日 朝、温習中空襲、交替で朝食、授業時間随意温習中にまた  空襲。小型機二千機大阪に来襲。

  水泳訓練始まる。養正館で支度、塩屋海岸で訓練。(爾後は垂  水海岸で実施)。

二七日 勉学に加えるに炎天下の肉体労働で生徒の疲労蓄積、健康  状態急激悪化に対処するため、本日から一週間、健康刷新週  設定。教頭訓話、「体調不良の者は進んで診療を受けて早期  回復に努め、八月からの練成に備えるべし」と。軍医長講話、「下  痢につき」。午睡の時間設けらる。

二八日 総員起こし五分前空襲警報、戦闘用意。一〇〇〇再度戦闘用意、午後の陸戦総合訓練(一・二部)も空襲下に決行夜半   に至るまで計五回の警報対応。

二九日S 外出日の警報発令対応が変わり、当直部が在校待機、そ  の他の部は帰校の要なしと定めらる。二・三・四部外出。

三〇日 〇六〇〇戦闘用意、〇九〇〇空襲下授業決行午睡中再  度その場退避、夕食前まで合戦準備そのまま。

八月

 一日 日課改正:昼の総員体操取り止め、午睡時間設定。   

 五日S 特別大掃除。一・二・四部外出。

 七日 広島に新型爆弾(原爆)投下の情報入る。

  同期の永見俊幸生徒、本日の水泳訓練中心臓麻痺により死亡。 (戦死扱いとなる)。

  校庭に於いて故大川敏行生徒(三七期次長・七月二日呉病院に  て空襲で戦死)告別式。

 八日 海軍大臣訓令、「わが海軍は黙々の裡に着々準備を整えつつあり。部内各員偽説に惑うことなく、自信をもって本分に邁進すべし」と。

 九日 松根油採集(松根掘出し)突貫作業、二・三号のみで実施。

一〇日 昨夜來〇二〇〇過ぎまで尼崎付近爆撃を受ける、総員退  避。ソ聯との戦端開かれるを聞く。

一一日 故永見俊幸(三七期)・松原昭夫(三八期・病死)両生徒   告別式。  

一二日S 一・三・四部外出。

一三日 神戸経大・宮田教授による経済学開講。

一四日 松根油作業 二、三号のみ。抜根と併せ農場整備、松根罐  見学。

 

終 焉

一五日 一一五〇照りつける校庭に第二種軍装着用で総員整列、   正午、玉音放送による終戦の大詔を拝聴。午後、温習室にて  謹慎。夜、計見先任監事から「冷静に令を待て」と言わる。

一六日 校長訓示、機密書類の整理・焼却。

一七日 転地療養者帰省出発。

一八日 夜、生徒呼集。計見先任監事から生徒全員休暇の名目で  することとなった旨達せらる。その後井上教頭からポツ  ダム宣言の解説。

一九日S 午前、帰省準備。午後、帰省関係書類、糧食等交付。

二〇日 一三〇〇〜生徒隊解散式。一九〇〇〜校庭にて晩餐会、   そのあと遅くまで名残の懇談。

  故大川・永見両生徒、各死亡の日をもって主計少尉候補生を命  ぜられた旨達しあり。

二一日一・二部、二二日三・四部 それぞれ帰省出発。

  朝 荷物をトラックで駅まで託送、校舎返還に備え大掃除。

  最後の昼食、一二四五軍艦旗掲揚、一二五〇総員集合、正面   玄関前に整列、御紋章と玄関前の教官方に訣別の敬礼、万感   の思いを籠めて垂水の丘を下る。

  こうして、我々が渾身の努力を傾けてきた日々は、突然終わ     った。

 

九月下旬 各地方に教官を派遣され、今後に関する説明会開催。

  「八月二五日陸海軍人ニ賜ハリタル勅諭」奉読、

  海軍生徒解員に際する海軍大臣訓示(別離の辞)伝達、  

  九月一〇日付紺野校長名「生徒一般ヘ達」文書交付、

進学・就職についての詳細説明(九月二三日付海軍兵学校・海軍経理学校連名「今後ノ心得竝ニ参考事項ニ就テ」に沿って)。

  海軍大臣からとくに支給された奨学金五百円受領。

一〇月一日  海軍生徒を差免される。

 

 

昭和三七年三月一七日

 同期会結成「三七会(さんななかい)」。以後、青春の一時期の忘

れ得ぬ体験を共有する仲間として、永く懇親を続けている。    

 

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