在校日誌見出しへ戻る


三七期渾身努力の日々     

         ―在校日誌―

 

 この日誌は、二、三の同期生の生徒修業記録を素材として、在校 中の主要な出来事を時系列で項目列挙し、これに多少の情景描写 と補足的叙述を加えて、栄光と苦難の織りなす我ら三七期十一カ 月の全体像としたものである。事実関係の把握には極力正確を期 したが、六十年も前のこととて資料としての完璧は望むべくもな い。しかしながら、当時の体験は、我々にとって終生忘れ得ぬものであり、その思い出を大切にしかつ誇りとして、余生を前向きに積極的に生きるよすがとすべく、あえてこのかたちで掲載することとした。

 

昭和一九年                                               

 四月一五日期限で志願書類提出

 五月一五日〜二五日 身体検査 全国(含外地)五十五カ所

 七月二〇日〜二三日 学術試験(毎日篩い落し)

  二〇日国漢 歴史 二一日数学 二二日理科物象    

二三日英語

 七月二四日〜二六日 口頭試験  帽子、服、靴の採寸

 八月 憲兵による家庭環境調査あり。  

 九月五日 合格通知 「カイケイリゴウカク イインテウ」の電報並びに同日付採用豫定通知書(海軍生徒採用試験委員長名)による。

             [以下日付に付したSは日曜祝祭日]

入校、そして鍛えられる   

一〇月

 一日 生徒採用予定者として我ら五百名、雨のなか御楯橋を渡り、品川校の校門をくぐる。

            [現港区港南四丁目・東京海洋大学敷地]

 三日 最終の身体検査を経て合格確定、娑婆の名残の写真撮影、  この日まで道場で寝る。

 四日 分隊寝室において軍装着付、紺の第一種軍装に憧れの短剣、  一号生徒(三五期)がにこやかに面倒をみてくれる。

  父兄と共に写真撮影・昼食。分隊において姓名申告。日課説明、  巡検用意説明あり。

 五日〜一七日 入校特別日課

   教頭を始め諸教官から、「勅諭衍義」、「生徒心得」、基本的動作(不動の姿勢・敬礼・行進・執銃等)、体操、喇叭譜・手旗、カッターの揚げ降ろし・海での橈漕等を、座学と実地によりびっしり教え込まれる。

 八日S 大詔奉戴日 軍艦旗掲揚、遥拝式、 宣戦の詔書奉読。

        (以後毎月八日定例)

  夜 映画「日本ニュース」、「海軍経理学校」

 九日 入 校 式  快晴  軍艦旗掲揚、軍人勅諭奉読。

   紺野逸彌校長から「海軍経理学校(第三七期)生徒を命ず」と口頭辞令。海軍軍籍に入り、下士官の上位に列せられる。

   分隊編入。各分隊概ね一号六名、二号十六名、三号三十一名ずつで、一〜八分隊が第一部、一一〜一八分隊が第二部を構成する。そのあと校長室で御写真奉拝。

   我々三七期の学年主任指導官は石井次男主計少佐、指導官補佐は佐藤政行主計大尉(翌二〇年五月少佐に進級)。翌年四月以降、指導官補佐に瀧明洋次郎主計大尉が加わる。

     級長は榊原秀雄生徒、次長は大川敏行生徒

   この夜から一号生徒、鬼となる。「ここはもう娑婆ではないぞ、故郷(くに)を思ってメソメソしたりしていたら承知せん、これからは何でも自分でやっていくんだ」と突き放されてショック。

   以後我々三号は、生徒隊全体の軍紀風紀の維持に任ずる週番生徒と、分隊ごとの個別的指導に当たる一号生徒によって厳しく鍛えられ、軍人としての海軍生徒に育てられていくことになる。このなかに在って二号生徒は、生徒生活の細部に亘る懇切な指導、助言で我々のひとり立ちを援けてくれた。

一七日S 入校特別日課終了。軍容査閲、「成績良好」の講評。

  午後、一号生徒に引率されて入校後初めて娑婆へ出る。宮城奉  拝、靖国神社参拝。

一八日 本日から一、二号生徒と同じ定例の日課・週課(本日誌末尾に掲載の日課週課表参照)となり、授業と訓育を主体とする「学校生活」が始まったが、起床から就寝までのトータルの「生徒生活」においては、一号生徒による厳しい躾教育が圧倒的な影響を及ぼしていた。

   生徒館では常に駆け足、階段は登り二段跳び(降りは一段ずつ)、もたもたしていると後ろから「待て!」、「やり直し!」と声がかかる。集合、整列すべて定刻五分前厳守。

   食事が終わるや週番生徒の「三号聴けー」で、「娑婆っ気満々」とか「動作緩慢」とか……説諭され、叱責され、更には立たされて鉄拳で猛省を促される。

   夜は、巡検前のひととき寝室で直属の一号生徒にみっちりしぼられる。姓名申告では「声が小さい!」、巡検用意・総員起こしの着替えの動作では「遅ーい!」、ベッドカッターでは「気力が足らん!」等々……しごかれたうえに鉄拳とともに軍人精神を叩き込まれる。巡検通過後も「三号起きろ」と『続き』をやられることが珍しくなかった。何事によらず、一人でも遅れをとった者がいれば連帯責任を問われて全員制裁を免れない。このような一号生徒による強烈な三号教育は一一月、一二月と続いた。

 

授業開始・広範な学科目

   授業は午前中一〜四時限、午後五、六時限で、この間は上級生徒の束縛から解放されるが、その代わり睡魔との戦いが待っていて、これが容易ならぬ難敵であった。

   在校中に受けた授業は概略次頁の通りで、文系理系の広範  に亘っている。講師はすべてその道の権威で、とくに基本学で  は我が国最高学府の碩学による講義を受けることができた。そのうえ、夜には三時間近い温習時間が与えられていた。世間では繰り上げ徴兵、勤労動員などでまともな勉強ができなかったこの時期に、我々だけはハイレベルの教育を受け、在校末期の切迫した情勢にあっても、授業は続行されて、最後まで勉学の場を確保されていたのである。

   経理学校の教程は本来三年間を前提としており、我々は一学年生徒に終始したが、三八期入校後はこれと区別するため、三七期を「甲第一学年生徒」、三八期を「乙第一学年生徒」と呼称した。(終戦による高専進学時には、特に二年編入の扱いとなった)。          

 軍事学

  軍  制:佐藤政行教官  二〇年三月初旬まで三十三時間

  軍需品学:林田行雄教官           七十五時間

  一般兵学:池田鶴喜教官・加賀 誠教官(講義項目後記)

       近藤 太教官(運用術)   兵学計 三十時間

  短 艇:近藤 太教官「短艇教範」         九時間

  陸 戦:田中富士雄教官「陸戦操式草案」、浅賀・平井教官、      

淺川教官(銃剣術)      陸戦計二十八時間

  化兵術:         二〇年七月中旬開講  八時間

  栄養学: 茶珍教授    二〇年六月下旬開講  六時間

  救急法: 中村軍医    二〇年六月      三時間

 基本学

  法学通論:牧野英一東京帝大名誉教授

              二〇年一月中旬まで 二十六時間

  民 法:我妻栄東京帝大教授  「民法大意:総則・物権」

              二〇年四月初旬まで 五十三時間

      六月中旬から谷口神戸経大教授     十四時間

            (二部は、吾妻光俊東京商大教授)

  経済原論:舞出長五郎東京帝大教授「理論経済学概要」百時間

           二〇年八月 宮田神戸経大教授 二時間

      (二部は、岸本誠二郎東京文理大教授)

 経済史:舛田正雄教官   二〇年三月〜七月 二十二時間

  会計学:太田哲三東京商大教授 二〇年三月末まで二十時間

           二〇年四月から土岐政蔵教授 十八時間

  憲 法:二〇年五月開講  俵静夫神戸経大教授 十八時間

 普通学

  数 学:吉川(きっかわ)英夫教官      五十三時間

       二〇年三月下旬から蔵田教官    三十八時間

  物 理:中川 努教官            六十九時間

  化 学:角田 誠教官(無機化学)      五十三時間

       二〇年四月から後藤教官(有機化学)三十五時間

  力 学:吉川(よしかわ)教官 二〇年三月から 四十時間

  論理学:伊藤庸雄教官            二十八時間

  歴 史:上田修一郎教官            十七時間

       二〇年三月中旬から蜷川教官     二十時間

  国 語:林 大教官             二十七時間

       二〇年三月中旬から石川 徹教官  二十七時間

  外国語:選択                五十六時間

      英 語:岡本圭次郎教官 原島善衛教官 

      独逸語:伊藤 庸雄教官 都築  教官 

  (授業の際は四個分隊ずつの教班を単位とし、教班ごとにある  いは教班合同で受講したので、所属教班により受講科目、講師  は必ずしも同一ではない。右記は三号時一分隊・二号時十二分  隊所属生徒の記録によるものである。授業時間合計は九百二十  八時間となるが、データの欠落による集計漏れがあるので、実  際の時間数は九百七十時間程度であったと推定される)。  

  備考:一般兵学講義項目

   艦艇の種類、「高雄」の模型説明、艦内装置、運用科倉庫、     六分儀・三鉗分度器、立標・浮標、水路図誌、測程儀、

   天文航法・地文航法

一九日 午後の訓育始まる。原則として毎日、短艇、陸戦、柔剣道、体操、駆足、球技(闘球、排球、野球)等を交互に実施。

二一日 翌日の式典に備え「特別大掃除」。海軍の徹底した清掃ぶ  りに驚く。

二二日S本校創立七十周年記念式典に参列。午後、運動会あり。

二三日 靖国神社臨時・例大祭にあたり、陸戦隊編成の一員として行軍・参拝、前日に引き続き、入校早々光栄に恵まれた。

午後、引率外出。三号倶楽部(高輪の高台に建つ豪壮な浅野別邸)へ。(のちに空襲で焼失、現港区三田三丁目)

二四日 朝 寝具乾し方(以後随時)

二六日 夜 映画「敵ハ幾万アリトテモ」

  (以後、在京中の映画、次の通り。一〇・二九「自動車構造の原理」、一一・一六「日本ニュース・比島沖海戦」、「母艦航空作戦」、一二・一六「雷撃隊出動」、一二・二七「日本ニュース・高千穂隊」、「航空作戦・潜水艦篇」、「ロッパ大久保彦左衛門」、 一・五「ハワイ空襲」、「河童大将」、「芸能戦線坂」、一・一〇「姿三四郎」、一・二六「日本ニュース」、「偉大なる王者」)。 

二八日 比島沖海戦の大戦果!を聞く。

二九日S 生徒作業隊編成、防空部署教練。

   この日初めて単独外出を許される。在校中、日曜および祝祭日には原則として外出を許され、情勢が緊迫してからも変わることはなかった。

三一日 石井指導官訓話、「一、銃後という言葉はおかしい。アメリカでは俺たちの戦争との観念強し。二、主計科は陰の存在なり、との考え、大きな間違いなり」と。

 

空襲始まり、寒気も募る

一一月

 一日 米機帝都に襲来、警戒警報、合戦準備、空襲警報、戦闘用  意、総員退避、  警報解除、用具収め。

   この日以後、敵機に日課週課を乱されることが多くなったが、原則的な日課運営は極力維持された。

   

以後年末にかけ、次のように早朝行事が連続的に実施される。

  短艇では全力橈漕、駆け足では必死の速駆け、大掃除では甲板磨きの苦行、いずれも一号生徒主導の猛訓練であった。

      一部     二部

(一一月)              (ブランクの個所は不詳)         

   二日 軍歌      

   三日 校外駆足     (総員)        

   九日 生徒呼集・校外駆足(総員)

  一〇日 校外駆足   総短艇

  一二日 総短艇    校外駆足

  一三日 軍歌         総短艇  

一四日 総短艇    校外駆足

  一五日 校外駆足   総短艇

  一六日 軍歌     校外駆足

  二四日 校外駆足    総短艇                        

  二五日 大掃除(総員)

  二六日 総短艇

  二七日 総短艇

 二九日 軍歌

 (一二月)

   二日 大掃除(総員)

   三日 総短艇

   四日 軍歌     総短艇

   五日 総短艇

   六日 軍歌      総短艇

   九日 大掃除(総員)

  一〇日 総短艇

  一七日 分隊対抗駆足競走 田町ロータリー往復

  一八日 軍歌     総短艇

  二三日  大掃除(総員)                         

 

一一月三日S 明治節。軍艦旗掲揚、遥拝式、御写真奉拝。

    白手袋着用(以後祝祭日には同様の儀礼あり)。

    〇九四五、雨中外出。

 四日 午後 防空壕排水作業。

 五日S 分隊行軍・分隊会(行き先は分隊別)。途中警報発令。

 八日 気温急降下、ネルシャツ適時着用許可。   

一〇日 一五〇〇〜聯合談話会(校長の「五誓衍義」及び弁論会)

一四日 一二三〇 剣柔道進級申渡式。

一七日 銃器点検あり。

一九日S この日から外出時ゲートル着用、徒歩にて二時間以内の  区域に限定。

二〇日 午後 防護作業(防空壕、溝掘り、排水等)。

  以後、次の通り貴重な訓育の時間が防護作業に充てられた。

  一一・二一 一一・二二 一一・二九(全日) 一一・三〇(十  一時以降) 一二・二(全日) 一二・四 一二・六 一二・八  一二・九 一二・一二 一二・一四 一二・一九

二三日S 新嘗祭。人員調査に緊張。そのあと被服点検あり。

二四日 一一四五警戒警報直後空襲警報、敵機台場付近に爆弾投下。  初の帝都本格空襲。

   この頃から連日のごとく警報発令さる。敵機襲来を「定期」と称するようになり、定期の来ないことがその日の特記事項になるほどだった。

二五日 訓育時 特別大掃除。

  外套交付される――二列の金ボタンに錨の肩章(着脱式)。

二八日 敵機襲来に妨害されるため、本日から一一〇〇昼食

三〇日 前夜から今暁にかけ二回警報、神田、日本橋、芝方面焼夷  弾爆撃の由。 夜間退避と午後防護作業で疲労のため、本日特に一八三〇就寝、温習時間なし。



在校日誌見出しへ戻る                    次へ

総目次へ戻る