海軍経理学校の歴史

 

一、海軍経理学校の創立

海軍経理学校の創立は、明治七年十月二十三日となっている。

昭和十九年十月二十二日、海軍経理学校創立七十周年記念式及び記念行事が行われたが、海軍経理学校の歴史は、この明治七年をもって起算している。また、海軍経理学校校歌の制定された大正十三年は、歌詞の「五十年光栄ある歴史」の通り、ちょうど五十年目に当たる。

明治七年十月二十三日は、「海軍会計学舎」を設置、会計局に属せしめ、「海軍会計官吏」となるべき生徒を養成するため、米国海軍主計官バートンを招聘して教師を委嘱した日である。

同年十二月四日、生徒を募集、採用年齢は十八歳から二十五歳まで、修業期間を満三年とした。場所は東京芝山内天神谷の海軍省属舎、生徒は通学制であった。

明治九年八月三十一日、「海軍主計学舎」と改称、翌十年六月十四日校舎を池上本門寺に移したが、同年九月、バートンを解雇、十一月十六日主計学舎を廃止した。生徒に対しては、艦船庁において実地訓練を行うこととし、十一年四月、主計学舎における生徒教育を中止した。

 

二、海軍主計学舎の再興、生徒教育の再開

明治十五年十一月八日、海軍主計学舎を芝公園三嶋谷の海軍省属舎に再興し、十六年三月二十二日、海軍主計官(主計科士官)となるべき生徒の教育を開始した。

生徒は、海軍兵籍に編入し、私費から官費に改めた。また、席次を准士官の次席とする「海軍生徒」の身分はこの時からである。

志願年齢は満十六歳以上十八歳以下、修業期間は五年であった。

十七年十二月十五日、所属が会計局から海軍主計本部に、十九年一月二十九日、再び会計局に、それぞれ変更された。

明治十九年七月二日、「海軍主計学校」と改称し、海軍大臣に所属することとなった。十二月二十二日、校舎を芝公園旧本省邸内に移転。

二十年一月から生徒の通学を廃止、校内に宿泊せしめることとなった。

明治二十一年十月二十三日、校舎を京橋区築地四丁目一番地に移す。

 

三、 生徒教育の廃止、主計学校の廃止

明治二十二年二月二十五日、海軍主計学校は少主計候補生(主計少尉候補生)を教育する所と改正され、生徒教育を中止することとなった。すなわち、この年から少主計候補生はすべて少主計候補生採用試験により採用することになり、この時在校中の生徒はそのまま教育を続け、明治二十六年に最後のクラスが卒業し、少主計候補生となった。

また、二十二年八月十五日、主計科下士卒の練習生教育を開始した。

明治二十六年十二月三十一日限り海軍主計学校を廃止し、少主計候補生については各艦、団、隊で実務教育を行うこととし、練習生の教育は海兵団において行うこととなった。 

 

四、海軍主計官練習所 海軍経理学校

明治三十二年五月十五日、「海軍主計官練習所」を設置(築地に再興)し、海軍省経理局長に隷し、少主計候補生の教育を再開、練習生教育も同所で行うこととなった。

明治四十年四月二十日、「海軍経理学校」と改称、新たに制定された海軍経理学校条例では、甲種学生(海軍主計官)、乙種学生(新たに採用した少主計候補生)、丙種学生(准士官)、甲、乙、丙種練習生等の教育対象を整理、規定を整備し、後の海軍経理学校令の原型となった。

 

五、生徒教育の開始

明治四十二年四月二十三日、海軍経理学校の設置目的に「海軍主計官ト爲スヘキ生徒ヲ教育」することが加えられ、同年七月から生徒の教育を開始した。(第一期生徒入校)

海軍少主計候補生採用委員長 主計大監 宇都宮 鼎は、かねてから海軍主計官の採用補充方法につき検討を加えてきたが、従来の実績に徴し、改善の必要ありとて、明治四十一年六月、「主計官補充方針意見」を提出、生徒の採用、教育の急務なることを建議した。

この意見書によれば、従来の東京帝国大学等の依託学生、少主計候補生採用試験による任・採用方法は、一部長所はあるものの、主計官の補充に十分な志願者が得られない。特に日露戦役後は法律経済を修めた者の社会一般の需要が増大し、待遇面での採用難の他、軍人志願の精神的動機等にも問題があったことが述べられている。これに基づき、明治四十二年にとりあえず二十名の生徒を採用すること、生徒の志願年齢を満十六歳以上二十三歳以下とすることが決定され、海軍経理学校条例の改正を見た。

宇都宮主計大監は、その直後海軍経理学校長として、在職中生徒一期の卒業及び四期の入校までを見届け、生徒教育の基礎を確立した。

生徒教育開始後、採用試験の著名な難関校として海軍経理学校の名声が一挙に高まり、極めて優秀な人材が集まり、海軍経理学校の光栄ある歴史が切り拓かれたことは、周知の通りである。

その後、生徒の志願年齢、修業期間、経理学校の組織等について再三の改正があった。

大正元年九月一日、生徒の志願年齢を二年短縮して二十一歳とし、修業期間を延長して三年四カ月に改めた。

大正七年、従来の海軍経理学校条例(勅令)が「海軍経理学校令」となり、校長を海軍教育本部の隷属とし、生徒の修業期間を三年に復旧した。生徒教育が海軍経理学校の第一の主任務に格上げされたのも、この時である。

その他、大正十一年までに、学生、練習生の制度について若干の改正があった。

 

六、関東大震災 海軍経理学校校歌の制定

大正十二年九月、関東大震災の災害を受け、同月二十六日牛込区河田町の陸軍経理学校内へ一時移転し、十月一日から授業を開始したが、翌十三年三月二十日、旧校舎跡の仮建物に移転した。

荒廃した築地の一角に急造された平屋バラックの新校舎での教育再開に当たって、精神を鼓舞すべく、開校五十周年記念式典が行われることになり、これに際し、海軍経理学校校歌制定が、片岡覚太郎教官(後主計中将、経理学校長)に課せられた。焼け残った高い煙突と校舎の低いトタン屋根を見比べながら、当直監事室の濛々たる蚊取線香の煙の中で作り上げられたのが、海軍経理学校校歌の歌詞である。「聳え立つ我等が母校」は、幻の夢であった。作曲は坂西輝信(後軍楽中尉)、大正十年海軍二人目のドイツ留学(軍楽)に派遣され、帰朝後すぐこの作曲を命ぜられた。留学中に習得した楽理手法を存分に駆使した稀代の名曲である。

昭和七年九月三十日、京橋区小田原町三丁目一番地に新築された新校舎に移転した。

 

七、その後の変遷

大正十二年四月一日、海軍経理学校令が改正され、校長は海軍大臣に直隷するとともに、研究部が新設され、従来の教育任務に加えて、海軍に必要なる会計経理の研究、その教育の企画に関する研究調査を行うこととなった。

昭和三年六月二十五日、生徒の修業期間を三年八カ月に延長し(同改正 勅令一二四)、同九年六月二十九日、生徒の修業期間を更に四年に改めるとともに、学生に補修学生(生徒教程を経ない主計中尉、少尉)を追加した(同改正 勅令二〇一)。

昭和十二年三月二十六日、第二十五期生徒の卒業式に、聖上の行幸を仰ぐ。

昭和十三年、海軍主計科士官の需要増大に伴い、二年現役主計科士官を採用することになり、七月、その補修学生第一期が入校した。

これに先立ち六月二十一日、海軍経理学校令が改正され、補修学生に生徒教育を経ない少尉候補生が追加され、大学卒業者は主計中尉に任官、専門学校卒業者は主計少尉候補生に採用されることになった。その後、学徒動員に伴い、昭和十九年二月に入校した第十一期から二年現役士官の採用が主計見習尉官の制度となったが、一期から最終の十二期に至る二年現役補修学生出身者は、大戦中各部隊、機関にあって目覚ましい活躍をした上、戦後日本の各界の最高指導者としての実績を残したことは、海軍経理学校の名声を一段と高めるものであった。

生徒も、三十期台に入ってから採用数が大幅に増えたが、青年達の海軍への憧れの高まりから応募者数も激増し、相対的にその評価は十分維持し得たということができる。

生徒の修業期間は、二十七期(昭和十三年卒業)が三年六カ月に短縮されて以後、戦時事変特例により次第に短縮され、三十四期及び最終卒業の三十五期(昭和二十年三月卒業)は二年四カ月となった。

 

八、生徒三十七期の入校以後

生徒、補修学生、練習生の増大に伴い、昭和十九年九月、かねてから海軍用地であり経理学校分校の置かれていた東京都品川台場に本校を移転、従前の校舎は築地分校となった。

十月一日、本校に第三十七期生徒が着校した。同時に第十二期見習尉官が築地分校に入校した。

十月二十二日、海軍経理学校創立七十周年記念式及び記念行事が、本校において行われた。

戦局逼迫、空襲の影響増大に伴い昭和二十年二月一日、生徒隊は神戸市垂水に移転、垂水分校が開設された。四月、垂水分校に第三十八期生徒が入校するとともに、予科生徒である第三十九期生徒が橿原市橿原分校に入校したほか、浜松市に練習生教育の浜松分校が置かれていたが、海軍経理学校の本部は垂水分校に置かれ、校長は垂水の地にあって海軍経理学校全体を指揮監督した。

昭和二十年八月ポツダム宣言受諾による軍の解体に伴い、在校中の第三十六期ないし第三十九期生徒は十月一日をもってその身分を免ぜられ、十一月一日、海軍経理学校令が廃止され、海軍経理学校七十一年の歴史を閉じた。

 

九、総 括

以上、概観したように、海軍主計科士官採用補充の制度に幾多の変遷があり、生徒教育を行わなかった時期、更には経理学校そのものが中断した時期もあり、明治末期の採用難、関東大震災前後の苦難等、海軍経理学校の光栄ある歴史は、決して一貫した順風満帆のそれではなかった。その中で営々と積み重ねた各時代の先輩の努力の成果が、世間の尊敬と高い評価を受ける海軍経理学校の輝かしい姿であった。我々三十七期生徒は正にその栄光を身に浴び、高い誇りを持って入校したわけである。その上、近代総力戦、経済戦の下で海軍の中での主計科の役割がいよいよこれから注目され、花開こうとする矢先の、海軍経理学校の歴史の終焉であった。

 


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