は  じ  め  に

 

 昭和十九年十月一日、北は樺太、南は台湾から、更には朝鮮、関東州、満州から、海軍経理学校入校内定の栄誉と感激に胸をふくらませた五百名の若者達が、「御楯橋」を渡って、品川台場の本校に参着、本館正面に輝く菊のご紋章を仰いで、海軍生徒への第一歩を印した。

 三年前に戦端が開かれた太平洋戦争は、緒戦の捷報も空しく、半年後のミッドウェーでの蹉跌以来、米軍の反攻を受け、私達の受験前後の十九年夏には、サイパンやグァムの玉砕という苛烈な戦局下にあったが、私達は、あえて醜の御楯たらんと堅く心に誓っての入校であった。

 以後、私達第三十七期生徒は、品川と垂水における勉学と鍛錬の生徒生活を送ること十カ月余。終戦により、こと志とは異なったものの、生徒時代に培った強靭な精神力を糧に、各人各様に、祖国の再建と発展に力を尽くして現在に至った。ここに、戦後六十年という節目の年を迎え、私達の来し方と生きざまを、それぞれの寄稿を中心にとりまとめて、文集の形で刊行する運びとなった。そして、御楯橋こそすべての原点という思いをこめて、書名を「御楯橋をわたって」と題することとした。

 

 顧みれば、私達第三十七期は、海軍経理学校史上、異色の期であったと言えよう。

 一つには、五百名という大量の生徒が、初めて採用されたクラスであり、しかも、いわゆる四修を含まないため、平均年齢の高い五百名であったのである。これを、一日も早く伝統の海軍生徒に育て上げようとの使命感から、一号生徒の三号教育には厳しいものがあったが、私達三号は、よくこれに耐え、励んだ。そして、三号相互の間には、年齢を超えて、唇歯輔車、切磋琢磨のよき関係が生まれ、そのプラス効果は、その後の密接な交流となって続いている。

 いま一つには、諸先輩と異なり、築地校ではなく品川校に入校し、垂水校で二号生徒の時に終戦、「最後の二号生徒」となったクラスである。このような事情から、「三十七期は不完全燃焼だったのでは」と言われたこともある。しかし、築地校以来の伝統的な教育訓練は受けさせようとの学校当局の配慮から、あの急迫した戦局下で、@終戦直前まで続いた著名な教授陣による高度な講義、A歴戦の教官による訓育訓練、B海経伝統の分隊生活、C厳冬早朝の校外駆足と総短艇、D本土決戦も間近と言われた時期での一週間の乗艦実習等々、「さすが経校」、「よくぞここまで」と感銘・感動の日々を送ることができた。戦後、各自が各界各方面に進み、祖国の復興再建に最大限の貢献ができたことも考え合わせると、我々とても、充実と完全燃焼のクラスであったと確信するものである。

 

 さて、私達同期の会「三七会」について振り返ってみる。三十七期にちなんだ昭和三十七年三月十七日、母校への追憶と思慕の念抑え難い同期有志の初会合で、同期の会の結成が衆議一決され、驚く程の熱意と速度で、同年六月には三七会創立総会兼第一回総会へと進み、三七会が誕生した。以後、現在までに、総会は六十八回、会報「三七会だより」は百十一号を数えるに至っている。このような三七会の隆昌発展は、会員の積極的参加と歴代幹事団の献身的尽力とに負うものと、深甚なる敬意を表したい。

 

 このたびの文集刊行は、この三七会活動の集大成とも言うべきものである。本書の成るまでに寄せられた会員各位の絶大なご協力に深く感謝申し上げる次第である。

 この文集を、今は亡き紺野校長はじめ教官方および亡き期友諸兄に捧げる。

 

  平成十七年十月吉日

 

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