海軍主計科と海軍経理学校

                 @ 水  谷    弘

 

海軍経理学校は、海軍主計科士官となすべき生徒の教育を主任務とする。生徒は卒業後、主計少尉候補生を経て主計科士官となる。主計科士官は、各艦・団・隊・庁において主として庶務、金銭・物品経理、衣糧、艦営需品等の調達補給を担当しつつ、海軍主計中将を最高とする官階を累進する。戦時下の特殊な事情が色々あったものの、我々が志願し、採用されたのは、このようなコースであった。

  

主計科の任務は、艦内や艦隊編成における主計長以下の任務や海軍省官制の主計官の配置等からある程度個別具体的に理解することができるが、「一口に主計科とは」という、主計科の海軍全組織の中での大局的な位置づけについては、先輩方に伺っても、その説明が必ずしも容易でない。我々が採用された時点での主計科の態様は、長い歴史の変遷の結果であり、仮に海軍がそのまま存続し得たと仮定しても、いずれ佐官、将官になる頃にはそれが変わっていた筈である。

  

私は最近、自衛官を含む後輩たちから、旧海軍のロジスティックスをどう評価するかという質問を受けている。一例は、難関を突破して採用された優秀な主計科士官が、第一線にあって「海軍諸例則」の番人であり、その執行を全面的に担当しながら、それを制定する側に十分配置されていたか、第一線の経験が中央にフィードバックされていたか、その専門知識が海軍全体として活用されていたか、ということである。この素朴な質問に「サイレントネービー」のままでは、後世に対する責任を果たせないのでは――このような視点からも、主計科の歩みを明治建軍の初めに遡って辿ってみる必要があると思われる。

  

海軍制度沿革(海軍省)によれば、明治五年に、それまで文官であった軍医、機関と共に、大秘書、主計大監(いずれも中佐相当官)を最上官とする秘書官、主計官の官階を定めたのが、武官としての主計科の起源であると述べている(本稿末尾参考表2)。しかしこれは、単に官階表だけからの説明であって、主計科の創設と沿革については、官制、編成、分限、服役、補充、叙任、海軍経理学校の教育、勤務の実態を総合的に見なければならない。文官と武官の区別は、その後もなおはっきりしないのである。

明治二年から三年にかけて、大将から少尉までの将校の九階級が確立した。これは、「御船(当時の軍艦のこと)乗込候船将」つまり艦艇乗組の将士についてのもので、これを「武官」と称した。これ以外の兵部省―海軍省職員はすべて文官であった。

  

前述の明治五年に武官官階が定められたとする軍医、秘書、主計、機関の各科は、乗艦四文官といって、主計科の場合、本省会計局の職員が提督府(後の鎮守府、艦隊を管轄する。当時は唯一東京のみ)に「出張」して乗艦し、本省大録は一等会計、権大録は二等会計、中録は三等会計としてそれぞれ艦内では大尉、中尉、少尉相当で、艦長の指揮の下で乗組員として制服を着て勤務し、本省に戻れば元の官名に復帰していたわけである。

  

明治五年の海軍省職制は、本稿末尾参考表1の通り、一等官から一五等官までの各官階に、海軍卿、海軍大輔、少輔以下の文官と、大将、中将以下の武官の各階級が対応していた。これは、戦後半世紀続いている防衛庁の組織と極めてよく似ており、卿は防衛庁長官、大輔は次官、少輔は参事官、大丞は書記官、少丞は部員に相当し、大将は統幕議長・三幕僚長、中将は陸・海・空将、少将は将補、大佐以下は一佐以下にそれぞれ相当する。因みに勝海舟は海軍卿《海軍大臣》たる文官で、明治海軍の大将でも中将でもなかった。

その後、武官の大将から少尉までがそれぞれ一階級上がり、大将が大臣と同格、大尉までが奏任官となり、続いて中尉、少尉が奏任に昇格する(明治六年)。これが、後に大将が親任、中将が高等官一等、少将が二等の勅任、大佐が三等、以下少尉まで奏任という終戦時に至るまでの高等官官等の原型となった。そうして、前述の一等会計、二等会計、三等会計はそれぞれ大尉、中尉、少尉と共に一階級ずつ上がり、元の大録以下には戻れなくなった。少主計、中主計、大主計と累進することとなったのはこのような事情と見られる。

 

主計科は、その後官階表の改正を重ね、明治九年に大佐相当の主計大監、明治十五年に少将相当の主計総監、更に明治三十二年に高等官一等たる総監(中将相当)ができ、大正八年には主計中将以下の階級となるが、明治九年の海軍文武官官等表には、卿以下の文官の欄、大将以下の武官の欄のほかに、軍医、秘書、主計、機関の各科が欄名空白、つまり武官でも文官でもない区分に掲げられている。

機関、軍医、主計の各科士官が武官になるのは、明治十五年、海軍武官官等表に「准将校」として掲げられてからである。すなわち、この年、海軍将校免黜条例(後の海軍将校分限令)が制定され、将校及び准将校(後の将校相当官)の終身官たる身分と、現役、予備役、後備役の服役区分が定められ、武官と文官が明確に区別されることになった。

そうして海軍の主要ポストはすべて武官をもって充てることになり、最終的には、技術、法務まで武官に組み入れられた。

  

主計科の職制について見ると、主計科は本来、明治五年の乗艦四文官の秘書科と主計科を統合したものである。明治五年ないし六年の海軍省官等表によれば、秘史局(人事等)、軍務局は秘書官、会計局は主計官をもって充てることになっている。すなわち主計科は、現防衛庁の内部部局の部員の役割であったということができる。

明治十五年に秘書科の名称が廃止されるが、次第に従前文官をもって充てていたポストが武官によって「補職」されるようになった。海軍兵学寮大教授が海軍大佐に官名変更(転官)される等は、まだ文官と武官の区別が必ずしも明確でなかった頃である。相互の転官もあり、軍務局長であった林清康が海軍少将から主計総監に転じて会計局長を務め、その後兵科に復帰して中将に進み、佐世保、横須賀鎮守府司令長官を歴任した例もある。

  

このようにして主計科は武官となり、明治十七年海軍将校准将校進級条例(後の海軍武官進級令)が制定されて前述のような転科がなくなり、将校相当官である主計科の縦割りの枠の中で順次進級することとなった。

明治二十四年までは、主計科士官は、海軍省において、会計局長(第三局長)以下のほか官房秘書官や官房主事の、大臣に直隷し、機密事務を掌り、各局の調整に当たり、また内閣や各省との折衝の窓口となる職や、会計局以外の各局に一つずつの課長のポストに補されていたが、以後会計局(経理局)、軍需局を除き次第にそのポストが消えていった。すなわち、中央機関ではその所掌任務が会計経理部門に局限され、特化していったということができる。

これは、その都度個別の理由はともかく、基本的には、その後主計科士官の補充難の時代があり、採用数が低迷したことが、大きく関わっていると見ることができる。

  

明治四十一年、海軍少主計候補生採用委員長 主計大監 宇都宮鼎は「主計官補充方針意見書」を海軍大臣に提出した。これは生徒教育を再開する必要を訴えたものであるが、その中で、明治二十四年以降の少主計候補生の志願、採用の実績を掲げている。すなわち、年平均採用予定数二十八人に対し、志願者四十人、合格者七・九人と、充足率三割に充たない状況で、合格者ゼロであった試験もあり、従前からの採用方法では充分な人材確保が不能であると述べている。また、明治三十七、八年の日露戦役後において法律、経済を修めた者には乗艦を希望しない者も多く、四十年代に至っては、採用できた中にも「将来の向上に疑いを持たざるを得ない」者がいる実情であった。これは、戦役後「(法律、経済を履修した人間の)世間の需要一般に増加したるに因る」と分析している。

このように、明治二十二年に海軍主計学校における初期生徒教育の生徒募集が打ち切られて以後(明治十五年から同校において武官たる主計官とすべき生徒の教育を実施してきたが、同二十二年、海軍少主計候補生採用試験によって主計科士官を補充するように改正された)の主計官採用の量的不足が、その後尾を引くことになる。

  

明治四十二年に生徒の採用を開始してからは、厳しい競争率によって評価は高まり、採用難は一挙に解決したものの、採用枠は、その時点におけるポストに対する需給によって決められる。生徒を卒業し、候補生に採用されてから大佐になるまでに二十年近く、少将になるまで二十五年近くかかる。明治十五年に主計科の将官が設けられたばかり、主計科として採用されたキャリアステップで将官に達するタマがまだ育っていなかった段階からの二十年にわたる主計官の採用難、主計科のシェア後退の下で海軍の組織と人事構成が定着してからは、この循環を断ち切って本来あるべき姿に改善することは容易でなかった。

大東亜戦争酣となり、総力戦、経済戦の下でようやく、生徒出身、二年現役を含めた主計科士官の実績によってその能力の活用が期待され、我が指導官石井次男主計少佐の補給参謀についての意見書が注目を浴び、主計科の艦隊副官が実現し、戦闘記録の作成が主計科に移管され、鎮守府附兼務ながら本省軍務局や兵備局に主計科士官が配置される等、主計科の役割の拡大への端緒が見られたが、既に前述のようなタイムラグの後であり、戦局はもはや「機構いじり」のできる余裕のない段階であった。ようやく主計科の「本来あるべき姿」への認識が芽を吹き始めた矢先の終戦であった。

  

では、「本来あるべき姿」とは何か。ここで翻って、冒頭に述べた「主計科の海軍全組織の中での大局的な位置づけ」についてみると、主計科は、法律学、経済学を専門的基礎教養とする職種である。

すなわち、海軍経理学校生徒の学術教育科目、普通学(教養科目)、基本学(専門科目)、軍事学(実務科目)のうち基本学は、法律学、経済学の各科目、財政学等である。この分野を本格的に教育するのは海軍大学校、兵学校、機関学校、経理学校を通じて経理学校だけであり、海軍大学校(甲種学生)、兵学校の「国法、国際法、海事法、海軍刑法、軍事行政」等の全科目中のウエイトは、経理学校の「基本兵学」中の運用術、航海術、砲術等のそれに対応する。

海軍少主計候補生採用試験科目は、憲法、行政法、民法、経済学、財政学、国際法、選択科目として刑法、商法、刑事訴訟法、民事訴訟法等であり、これらの科目は、文官高等試験科目と同じ、特に行政科試験と全く共通と言ってよい。

このように、海軍経理学校出身者の海軍組織全体の中での役割は、各省における高等試験行政科有資格採用者に相当する。

 

このことは決して、法科万能の官僚主義を海軍に持ち込むことや、縦割りの縄張り意識ではない。お互い身命を君国に捧げ、滅私奉公の精神をもって只管命の下、与えられた任務遂行に当たる中で、平易に言えば「組織を作り、人を配置し、着せて食わせて給料を払い、物を管理、調達して必要なところへ届ける」いわば管理間接部門と、直接部門である第一線の作戦、用兵との、お互い責任ある有機的連携の接点がどのようにあるべきかということである。

第一線に後顧の憂いなく海軍全組織の任務を完遂できるようサポートする責任は、同時に、国家全体の政戦略の中で、海軍に対する国を挙げてのサポートを取り付ける役割でもある。

中央で主計科の所掌任務が最も局限された時代にあっても、予算、決算、給与、財産管理は主計科の専管であった。予算は政府の中で海軍全体の事業の大枠を決めるものである。この執行を裏付ける諸制度は予算と一体でなければならない。大蔵省との折衝と、法制局、内閣とのそれは、不可分のものである。

  

ここで再び明治以後の近現代史を辿ってみると、明治の前半期、明治後期、そしてその後の日露戦役終結後の三時代に区分することができると思う。

第一期は、開国後世界のジャングル・オブ・パワーの中で見事に生き残り、その後の発展の基礎作りをした時期で、この間の日本人の叡智と努力は、具体例を列挙するまでもなく、何れも完璧なものであった。武官によって海軍全体が組織されてゆく中で、少数精鋭ながら主計科の任務遂行体制は保障されていたと言うことができる。海軍省において、閣議、省令訓令、官制、定員、人事法制、服制、営繕等はすべて主計科の所掌であった。海軍諸例則の編纂も、当然含まれる。

第二期は、日清、日露の両戦役、特に日露戦役の軍事的勝利は、新しい秩序に向かって世界史を大きく転換させた。ここで発揮された国民の実力が称揚さるべきは勿論である。しかし、この成果は、第一期の基礎があったればこそ、それが(タイムラグを経て)実ったもので、あえて言えば、刻々の局面を乗り切ることに主力が注がれ、第一線の武功重視の傾向を強め、長期的な視点からの組織の再検討の契機はなかったと思われる。主計科の採用難やシェアの低下を経験したのは、この時期である。

第三期は、世界の一等国となった日本に対し、新たなジャングル・オブ・パワーが展開する。ここで海軍は、家族的団結と以心伝心の信頼感を軸に、組織も融通無碍の弾力的運用を行った。軍人勅諭を忠実に遵守して政治から遠ざかり、只管大命の下、与えられた任務を遂行した。(勅諭の個々の文言は、時代によってその概念、解釈が大きく変化する)。サイレントネービーの謙虚な精神で、言挙げせず、黙々と献身した。連合艦隊司令部以下部隊の活動は主として海上で、娑婆とは隔絶された伝統的美風が守られていた。

この時期の緊迫した容赦のない国際情勢に、この伝統的美風がそのままで対応できたかが問われるところである。組織が拡大する中で必要な情報管理と伝達が円滑に行えるか。中央の令達が末端まで疑義なく徹底できるものであるか。時代の推移を見越して、全般を根本的に見直すべき時期ではなかったかと私は考える。少なくとも、主計科が海軍の中枢にあって総合的チェックと調整に当たる態勢でなかったことは事実である。偶々先輩方からの指摘もあって私が調べたほんの数例でも、この辺を裏書する事実が散見される。

更に加えて、国際関係の推移は如何ともし難く、日米両国の対決が不可避の方向に進む中で、歴史に徴しても常に国運を担ってきた海軍が、(実際の戦闘、抑止力の何れを問わず)総力戦の下で軍令・用兵を含めその実力を完全に発揮し、護国の大任を果たすことができるよう、国家戦略全般の中での関係方面との調整に、最善の組織体制で臨むべき時期であった。

  

明治四十二年海軍経理学校生徒教育を開始してから激しい競争率で天下の英才を集め、昭和十三年から二年現役という日本各界の最高の指導者を擁した主計科士官が評価され、役割が見直されたのは、もはや大東亜戦争の戦局が緊迫してからであった。

海軍経理学校校歌(大正十三年制定)の「仇はらふ銃の後に・・身をこがす給養経理」と、昭和十九年の七十周年記念校歌の「経国理財の理想を胸に」を対比すると、「縁の下:」の献身的奉仕精神は忘れてならないものの、この間の意識と使命感の高まりを読み取ることができる。

海軍経理学校が俊秀を集め、軍人としての精神教育を施した成果を挙げたのは、結果的に、むしろ戦後二十世紀後半の日本の復興であったと言っても過言でない。

  

仮に海軍が存続し得たと仮定した場合、主計科と兵科のいわゆる「一系化」は時間の問題であったと思われる。其の時の経理学校の教育とその出身者の役割は、以上述べてきた歴史の延長であることに間違いない。

  

我々は海軍経理学校に採用されたことを誇りに思い、営々とその栄光を築いてきた先輩の努力に感謝する。軍人として体得した海軍精神は心の支えであり、戦後これによって人生を全うできたことに満足している。我々が海軍を懐かしみ、海軍美学に酔うことは、後世の人達も理解してくれるであろう。

しかし一方で、大東亜戦争の軍事的結末は事実であり、選び抜かれた先輩の功罪であっても、なお後世の歴史の審判に託すべき点が残るとしても、民族として将来二度と繰り返してはならない反省点が存在する。

二十一世紀に入り、世界情勢の急展開と共に、日本は再び明治初頭の原点に立っていると言うことができる。歴史を尊重しつつ、冷静に見直すことが大事と考えるものである。        

 

 

 

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