思いつくまま

                  Q 伊賀上  郁 夫

 

昭和六十二年七月末から十月末まで約三カ月間、不覚にも当地の大学病院に入院、物心ついて以来風邪で寝込んだことすらなく、最近まで職場の運動会でマラソン三連勝といった調子であったので、積年の疲労のせいかなあとつくづく思ったものである。退院のゴタゴタの中、奇しくも退院の日が還暦の日であったことを改めて思い出させたのは、年が明けてからで、教室の助教授と助手がやってきて、「ご病気のため、年を越してしまいましたが、新緑の候、東京と新潟の中間の越後湯沢あたりで、卒業生と共に先生の還暦の会をやりたい」という申し出で、誠に有り難いことであるとともに感無量のものを感じた。

私が新潟入りしたのは昭和二十八年秋であったが、昭和五十五年頃、旧海兵、海機、海経在校生を中心に越水会という集いがあるのを、海兵七六期川瀬煕氏を通じて知ったが、その後、三七会、浴恩会などの活動を知り得た。昭和五十五年一月の名簿までは、小生は行方不明者にされていた。父も海軍軍人で、ミッドウェイ海戦の生き残りで(重巡妙高)終戦近くはスラバヤ軍港にあり、戦後は部下を連れて、バンドン〜レンバン島〜鹿児島に上陸をしたが、父が復員するまでの間、戦後の国の建て直しは農業立国しかないと勝手に判断し、九州大学農芸化学に入り、旧師の推薦で新潟へやってきたが、それからずっと当地へ居着いてしまった。新潟大火、新潟地震など大変な災害を経験したが、その後、越水会を通じて山口五郎氏始め数人の海経三七期生がおられることを知った。いずれにしても昭和五十六年八月一日、新潟三七会総会が開かれ、前年の行方不明者から一転して晴れて総会に出席でき、石井教官、佐藤教官、瀧明教官ほか三七会の諸士にお会いして、三十六年目の感慨を味わわせて頂いた。

昭和四十〜四十二年、米国留学から帰国した前後から始まった、いわゆる大学紛争は、日本中に燎原の火のように広がり、全共闘と真っ向から対峙し、研究とは何か、教育とは何かといった議論が戦わされた。小生も、うちの学長が全共闘につかまり、救出する過程で目つぶしを食らい、負傷したが、さしもの紛争も、二、三年中に急速に鎮静化した。

印象的なビジターの中では、昭和五十九年秋、敷島紡績人事部長であった三田義雄氏で、うちの学生の就職に関係して訪ねられた。地方の県にいると、三七会のメンバーの訪問はめったにないし、学生の口答試験は打ち合わせ通り数分で終わり、夜は市内随一の料亭「鍋茶屋」で新潟総会以来の宴をもったが、大方の諸士がご存知の通り、彼のカラオケの美声はまさにプロ級で、マダムに他の客が逃げるといって嫌味を言われた。

一年おいた昭和六十年秋、分隊監事であった小池英作教官が、酒販を扱っておられ(中泉(株))、私も農芸化学をやっておって、酒も好きな方で、時間をみて当地に来られ、一夜の宴にお招き頂いた。教官とは垂水でお別れしてから四十年目の再会であり、感慨にたえず、夜おそくまで海軍のこと、垂水のこと、父のことなど話の尽きることはなかった。

昨年入院中、新潟県県会議員小川義男(社会党)が北朝鮮ピョンヤンを訪問し、日航よど号事件の小西隆裕氏との対談が、フォーカスに掲載されているのを拝見した。彼の活躍を懐かしく思った。

大学というところは、研究・教育の場であるということになっている。一方、大学は実に会議の多い所でもあるし、いくらかの役職にでも当たると、仕事量は比例級数的に増大するとともに、自由であるべき仕事量は減少する。大学の一番大きなメリットは勉強できるとともに「自由度」が大きいことであり、それが魅力で安月給でも大学の先生になりたい後輩が次々に現れる訳である。本大学が決めた定年まで五年程であるが、差し当たり第一の人生を精一杯全うしたいものである。

 

三七会総会には仕事が重なったりして、余り出席もできず、日下氏始め幹事の皆様には大変なご苦労をおかけ致しております。還暦に当たり、思いつくままの雑文を書かせてもらいました。今後とも皆様のご交誼を頂けますようお願い致します。(昭六三、一、一一記)

 

 寄稿文目次へ戻る