戦後四十年を顧みて

                  P 中 村  明 治

 

昭和六十二年元旦、私が満六十歳を迎えた日である。

 世間の周りが高齢者の多くなったせいか、特別な感慨も持たなかったし、そう意識することもなかった。三七会だより寄稿の要請をうけて、改めて六十歳という年を意識し、還暦、人生の折り返しということで、来し方を振り返ってみたい。

 昭和二十年八月、終戦で垂水の山を下りてからはや四十年余りが経過した。故郷に帰る汽車の旅、不通箇所となった鉄橋を渡ったあの暑い日差しを思い出す。

 二カ月余りの疎開先での生活の後、鹿児島に出た。家庭の諸事情のため進学を断念、就職先を探し生保会社に勤めたが、若さのせいもあり二年後に退社、家事手伝いなど浪々の日を経て、昭和二十五年県庁に入った。それから三十四年間、地方公務員一筋の道を辿った。

 北は県東京事務所から、南は大島支庁(奄美大島)に至るまで、本庁と出先機関勤務がほぼ半ばする勤務であった。

 戦後の困苦欠乏の時代、県も財政が窮乏し、再建計画が実施され、業務全般に亘り財政のきりつめでかなり苦労を強いられた。しかし、その後の高度経済成長期から財政規模も増大し、産業、交通基盤の整備が図られ、地域の振興も目ざましいものがある。

 四十四年から五カ年、東京事務所勤務となった。県と国との連携役を果たす主要な役割を持つ事務所であるが、行政情報の早期の取得、施設、補助金等の国、国会議員への陳情など、事務所と本省、国会議員等との折衝に終始する多忙な日々であったが、非常に充実した勤務期間であった。また、外に出ると滅多に知人に会わない都会の解放感を味わい、五年間はあっという間に過ぎた感じがある。

 県庁勤めの最後は、大島支庁での離島勤務三年間である。奄美大島を始め五つの主な島々からなる奄美群島は、緑と紺碧の海に囲まれた風光明媚な環境であった。農業基盤の整備、ジェット空港建設、国道バイパスの建設等の振興事業を進めた。赴任の年が何年ぶりかの旱ばつで、毎日天を仰ぎ、各島々を農産物、飲料水の対策などで回り歩いた。ダムの早期建設が必須となり、着工された。現在はこれらの施設が完成し、或いは建設が進行中である。人情味豊かな島であったが、選挙に熱中し、例の世間を騒がせた選挙トバクがあり、更には国会議員選挙の保守二派に分かれての争いなど、政争の烈しさは行政にも少なからず影響があり、全く手を焼いたものである。

 以上、県庁勤務の特に目ぼしいものについて述べたが、五十九年四月末退職した。いろいろと困難な仕事や、苦労もあったが、海経での厳しい訓練に耐えた自負心が、今日までの人生に大きな支えになってくれたと思う。

 現在は県関係の団体職員として、農地、公立用地関連で、県行政の補完的な役割を受け持つ仕事で頑張っている。仕事をとりまく情勢は厳しいものがあるが、将来への展望を明るく持ってあと数年努力したいと思う。現在は家内と二人暮らし、娘は東京に嫁ぎ、息子は就職。

 現在の仕事を卒業したら、健康を第一に更にゴルフに精進し、趣味の園芸、囲碁に打ち込みたい。また、史蹟を訪ねて国内旅行をと思っている。肩ひじを張らず、心豊かな人生を送れるよう心がけたい。                  (昭六二、五、一八記)

 
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