回想、そして明日なく

K 鎌 塚  五 郎

 

昭和二十年八月某日、同分隊の田中秀夫氏と一緒に垂水駅から帰郷、氏と神田で別れ、熊谷駅に降りる。敗戦前夜の空襲で市街地の大半は焼野原。さては我が家も当然ないものと覚悟したが、着いてみると我が家と近隣の四、五軒が残っていた。母屋の太さ四十糎ほどの梁が、直撃弾で中程から折れていたが、母や祖父の奮闘で火災だけは免れたという。その夜はぐっすり眠ったかに記憶している。

 幸いというか、申し訳ないというか、当時の家業は軍需の下請け木工業で敗戦時まで何とか継続しており、その後も日ならずして進駐軍の需要でいちはやく復活し、家族を含め十人程の零細工場は朝七時から夜十時頃まで稼働していた。私は肉体労働が大好きなので、重いデスクを担いだり、塗装作業に夢中になっていた。その傍ら地元の旧制浦和高等学校と大学に通い、昭和二十五年三月に学業を終えた。その間、ご多分にもれず、闇米を担いで本郷界隈を戸別訪問したり、資本金二十万円ほどの商事会社の設立登記をしたり、宮本顕治の演説に感奮し眠れぬ夜を過ごしたりというようなものであっ

た。この雑然とした青春の思い出の中で際立っているのは、薄暗い大学の教室を脱け出し、当時、アメリカ女兵(WAC)の宿舎になっていた東京海上旧館に行き、納品した三面鏡やベッドの修理作業をしながら、脂粉の香をかぎつつ、あわよくば誘惑されるチャンスなきやなどと考えていたことだ。

 さて卒業した。家業はそれなりに忙しかつたが、大学を出たからには人並みにサラリーマンになろうと幾つか入社試験を受けた。あの頃は今より就職難だったのか、或いは今のほうが難しいのか、その辺の事情はさっぱり判らない。どこかの試験場で、同分隊の弦巻修氏と一緒になったことを思い出す。

 その頃、雑誌「世界」だったかに羽仁五郎が、「我血税を喰みたることなし」と書いているのを見て、これは恰好いいなと思ったが、背に腹は代えられず、公務員試験なども受け、通産省から芝高輪の宮家旧宅へ呼び出された。そこで試験官に対して、「荒廃した日本経済の再建方法は社会主義体制によるほかない」と弁じたて、揚げ句、「君は民間企業に合格しているようだが、役人になどなるのはやめたほうがいいよ。第一給料が安くて生活できないよ」と体裁よく断られた。

 結局、ある損保会社に就職したが、当時の初任給が我が家のベテラン工員の半分位だったかと思う。会社では仕事などありはしない。配属されたのは、五十歳前後の東大卒と商大卒の上司二人(恐らく外地帰りの窓際族)、私と商大出の同僚、女子社員二人の合計六人の企画室というところで、終日英語の業界誌を読んだり居眠りをして、退社時刻の四時になるとさっさと帰ってしまった。そのうち貿易も徐々に復活したので、海上保険の現業に配属になり、人並みに一生懸命やったが、昭和三十五年頃、飲み過ぎか、ストレス過剰のためか、肝臓病を患い、たまたま家業も木製家具からスチールデスクヘの転換期に対応できず四苦八苦の状態だったので、退社して整理にあたった。

 整理後は従業員一名の家具販売店を経営、昭和四十年暮れまで頑張ったが、時に利あらずというか、無能不適というか、いつの間にやら累積債務は増すばかり。子供も二人、何とかせねばということで、再度のサラリーマン生活に入った。以後アメリカ系損保会社を転々としながら、昭和五十四年五月まで勤務し、現在はささやかな家賃収入、年金、退職後始めた損保代理業で生計を維持している。

 昭和二十年八月以降は、行き当たりばったりの残生というよりない。まして還暦を迎えた現在、明日をどぅ生きるかと問われても答えようがない。今日一日もどうやらやり過ごしたかと肩を落として床に入る。睡眠時間とわずかなビジネス時間以外は、詰め将棋を考えたり、一冊二、三百円の古本を五千円ほど買って来て徹夜で読んだり、山中や河原を彷徨して、春蘭、石ころなどを採集したり、赤提灯で泥酔し、クルマ社会に呪詛の声を張り上げたり、中学の同窓生に呼び掛けて、美術展の世話をしたりの、とりとめのない日常である。

 ところで話は変わるが、一昨年の夏の十二分隊会で隣席に座って四十年ぶりの旧交を温めた滝川昭治氏が、それから半年ほどの昨年二月十九日逝去された。曩に松井直氏、こんどは滝川氏、十二分隊を代表した俊才次々に鬼籍に入る。誠に寂寥に堪えない。       

(昭六三、二、一一記)

【平成十二年五月十六日永眠】

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ