三号生活と私

                  G 神 崎  勝 巳

 

 後ろ髪を引かれる思いで海経を後にし早くも四十二年、もし海経生活を経験していなかったら、私は今頃どうなっていたのだろうか。思わず目頭が熱くなる。海経での特訓、特に三号生活は、ひるむ私を励まし、私の人生を支えてくれた。

三号生活!六十二歳となった現在でも、血湧き肉踊る懐かしい思い出となって胸に蘇える。

 農家の長男として生まれた私は、帰宅後やむなく家業を継いだ。年は二十歳でも素人の私、百姓仕事は難しく辛かった。いくら頑張ってもうだつが上がらぬ。やがて親戚の勧めで百姓の上手な妻をめとり、現在三人の娘の父親となった。

 忘れもしない昭和二十六年、世話好きな父は、親戚の娘の看病に疲れ果て、ついに父自身も病魔に襲われ、肺結核に感染、そして重態に追い込まれ、あげくの果てに母、娘、妻、兄弟、家族全員が次々と入院、来る日も来る日も病院通いに明け暮れ、農作業も手につかず、一家滅亡の危機にさらされ、途方にくれた日々を過ごしたものだった。

 肺結核は、当時伝染を恐れる余り世間から嫌われ、以前と打って変わった冷淡な仕打ち、世間の無情を痛い程体験させられ、「今に見ていろ」と心に叫び続けたものだった。こんな私を鞭打ち勇気づけてくれたのは三号生活、苦闘への挑戦の追憶だった。野良仕事と看病、冷たい世間の仕打ちに疲れ、星のきらめく夜空を仰ぎ歌った軍歌『如何に狂風吹きまくも・・・』、ショボショボするな元気を出せと、心に鞭打ち唯一人ねぐらについたのだった。冷たい蒲団をかぶり止めどもなく流れる涙、いつの間にか眠りについていたものだ。

 父は闘病生活五年、遂に帰らぬ客となった。幸いに他の家族は全員全治することができた。しかし、長い間の病院治療のため財産を使い果たし無一文となり、その時点から私の人生は再出発だった。鍛えられた海軍魂、唯がむしやらに仕事に励んだ。お陰でどうやら今日の私に辿り着くことができた。

 昭和五十四年春、同期の皆様の応援を得て市議選に出馬、高得点にて当選、三期目を迎えるに至った。青春時代一度は国に捧げたこの体。裸一貫になった私である。これからは、世のため人のために尽くしたい。社会への恩返しをしたい。市民の幸せ、ふるさと佐倉の発展のため身も心も捧げたい。そう念ずる今日この頃である。

 とは言っても齢すでに六十二歳、自己の能力の限界を嘆く今日である。果たしてどれだけの事ができようか、一抹の不安を感ずる次第である。同期の皆様の温かいご協力にすがりたい一念である。安藤生徒、水谷生徒、丸山生徒には格別なご配慮を戴いた。唯々感謝の気持ちで一杯である。

 一定月の七日に行なわれる東京三七会、幹事さんに申し訳ないと知りながら、忙しさのあまり殆ど参加できず迷惑をおかけしている。せめてもの罪滅ぼしにと印旛沼の花火大会、船遊び、歴史民族博物館、草笛の丘見物に皆様をお誘いしたが、不行き届きの点が多くご迷惑をお掛けした。今後つとめてゆとりある生活をつくり、同じ釜の飯を食べ、苦楽を共にした同期の皆様と、心ゆくまでくつろげるチャンスが一日も早く訪れるよう念願し、役員の皆様のご苦労に深謝申し上げ筆を擱きます。        (昭六三、二、二二記)

【平成十四年十月二十四日永眠】


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