還暦を迎えて

                  F 増  田   勝

 

三月の末に還暦を迎える。六十年をふり返って、意気地ない生き方だったとも思うし、平凡な幸せな人生だったとも考える。垂水で終戦となったが、東京の家は三月十日に空襲で焼け、疎開先の新潟県へ行き、高校から大学へ進んだ。卒業してから四十年近く、長い長いサラリーマン生活である。比較的工場勤務が多く、北海道にほぼ十年、千葉にほぼ十年、あとは東京に住んだ。その間、労働組合の専従をやったり、小学校のPTA会長になったり、市の人権擁護委員を頼まれたり、ヒョンなことで、市議会議員を二期やったりした。多少変わったこともあったが、概して流れにまかせ平々凡々であった。結局、役員になれず関連会社に出され、肩書きだけ社長だが、実質窓際族である。右顧左眄、優柔不断な性格で、特殊な能力を持たない人間にとっては、この程度の六十年でも已むを得ないのであろう。もともと粉骨砕身とか、頑張るとか余り好きでなく、これからは、庭仕事と読書と旅行位で、平穏に楽しく暮らそうと考えている。

 六十年のうちの僅か十カ月半であったが、海経での生活は強烈な思い出を残しているし、私の進学、更にこれからの生き方に大きな影響を与えている。

 今でも、戦史に関心を持ち、米内、山本、井上大将の伝記を読んだりする。俺は海軍生徒だったと自慢したり、陸軍はつまらん、海軍はスマートだったなど威張ったりする。音痴の私が酔って歌うのは寮歌と軍歌である。

 しかし、何が何でも海軍という気にはなれない。「もう一度十七歳に立ち戻れたら、海軍経理学校へ入るか」と聞かれたら、ノーと答えるだろう。私にとっての十カ月半は、考えてみると、痛くて、辛くて、寒くて、眠くて、ひもじくて、楽しいことは一つもなかったと言っていい。上級生の理不尽な殴り方、威張り方に、腹の立つ思いと諦めとがなえ合わされ、いわば堪え忍んだのだ。(尤も、運動神経が鈍く、何をやらせてもトロいくせに、変な小理屈を言う私の如きは、上級生から見ると、歯がゆい、だらしない男に見えただろうと、今では思い返したりするが。)

 海軍に対する私の思いは、いろいろと矛盾している。同期の人達は会えば懐かしい。同じ苦労をした仲間という共感を覚える。三七会の例会に顔を出せば、俺、貴様の昔の気分で楽しい時を過ごせる。海経に対する愛着がないわけではない。だが、今更上級生だとか水交会だとか言われても、すんなりとけ込む気にはなれない。太平洋戦争や、当時の軍隊の在り方には批判的である。葬式の時には軍歌を歌ってもらいたくないと思っている。私のよぅな考え方は、三七会の多くの方々或いは海軍に関係する人達とは少しずれていると考えるが、反面、三七期の同志でも、全く消息を伝えて来ない人もいるということは、人、夫々さまざまな考え方を持っているということなのだろう。

ともあれ、もう還暦、時の過ぎ去ることの早きに呆然としつつ、品川、垂水を思い出している。冷たかった総短艇、雪の多い寒かった冬、校庭に咲いた桜の花、そのあとになった小さな桜んぼを、独りで口に含んだことなど、往事茫々である。(昭六三、一、二九記)

【平成十年四月十五日永眠】

 

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