私的英国学

                  F 釘 丸  保 男

 

 三十数年の都立高校英語教諭の職を離れて、現在はフリーの身である。在職中は、たとえ夏休みであったとしても、合宿やクラブの指導等で、長期の休暇が取れなかったので、退職後は英・米など英語圈の国を、まとまった時間を持って訪ねたいと念願していた。

 そこで昭和五十九年三月に退職して、その年の九月から一カ月、まず英国に旅行した。事前に綿密な計画を立て、スコットランド、ウェールズ、イングランドの各地を効率よく回って来た。それが、わが英国病の始まりである。六十年、六十一年と英国行脚(一日に二十キロも歩くことがあるので、この名がふさわしいであろう)の旅を重ねた結果、寿命が許す限りの「私的英国学」の事始めとなった。

 それでは、六十一年の旅の一端をお話して、それがどういうものか、ご理解を願うことにしよう。

ドーバー海峡にのぞんで、Hastingsという町がある。現在は海辺の保養地として知られているが、西暦一〇六六年に、ここから数マイル離れた Battleにおける戦いで、英国の歴史は一大変革を迎えることになる。ノルマンディ公ウィリアム一世が、アングロサクソン王ハロルドを敗って英国の王位を継承した、いわゆるノルマン・コンクェストがそれである。ここに三泊して(驚くなかれ、ツインの部屋で朝食付一泊五千円以下である)近くのRye,Doverなどに足を延ばす。ヘイスティングズを含めてこれらの町は、一朝事ある時には、海軍力の一翼を担う代わりに、英王室からさまざまな特権を与えられていた。殊にライは密輸の基地として繁栄をほしいままにしていた。何百年と続く小石の舗道の坂道にあるマーメイド亭(人魚亭)には、その昔ドクターシンと呼ばれる凶悪な密輸業者が定宿にしていた部屋がある。この部屋に迷路のような秘密階段がついているそうである。ドーバー訪問は、慌ただしいものであったが、わずかな時間内に数隻のフェリーがヨーロッパに向かつて出帆するのを見た。ヨーロッパに対して至近距離にあり、第二次世界大戦では、ドイツ軍の上陸に備えて切迫した状況にあったそうである。

 ヘイスティングズの次の宿泊地はWinchester である。この町はアルフレッド大王の宮殿のあった、古い英国の首都で、有名なパブリック・スクールと、英国一長い大寺院がある。ところが、この古都訪問で、私には計画外の二つの収穫があった。

一つは、この年西暦一九八六年はDomesday九百年に当たるので、市のギルドホールで、その記念行事が行なわれていたことである。Domesday というのは、前述のウィリアム一世が、一〇八六年に命じた英国最初の国勢調査書である。この言葉の意味は、神の最後の審判の下る日であって、英国民の誰一人として、その財産調査の網の目を逃れることができないことを暗示している。この調査の結果は、ウィンチェスターの宮殿の一室に全国から次々に報告され、書記たちは精密な国勢調査書を作製していったのである。

 今一つは、この地で客死した女流作家ジェーン・オースチンの旧宅を偶然発見したことから、近くの村にあるオースチン記念館で思わぬ勉強をさせてもらったことである。このことが契機となって、帰国後彼女の作品を再読したり、まだ読んでなかった作品も読んで、結局彼女の全作品を読了することになった。

 このようにして、書斎での一年間の読書を通じて、頭の中に描いた英国に関するさまざまなイメージに、英国各地の徒歩旅行というフィールド・ワークで肉付けをしたり、血を通わしたりしている。そしてまた、このことが逆に帰国後の読書に刺激と意欲を与えてくれるのである。この相乗作用がうまく行けば、私なりの英国像が、そのうちに見えてくるのではないかと思う。             

(昭六二、五、一一記)

 

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