海軍手帳

                  F 今 西  洋 三

 

 私の手許に古ぼけた一冊の手帳がある。海軍経理学校でもらった昭和二十年版の「海軍手帳」である。それには細かいペン字で一月一日から八月十八日まで、日々の出来事や所感が、びっしりと書き込まれている。

 この手帳は表紙がチョコレート色をした紙製の粗末なものである。終戦から四十年もの長い間、書棚の隅に眠っていたが、二年前、北海道新聞社を定年でやめて、ヒマたっぷリある関連会社に再就職した際、思い出して読んでみた。そこには純情な、「愛国少年」の自分が懐かしく息づいていた。私は「よし!」と思った。「海経をはさんで、中学から大学へと生きた、わが青春のあるがままの姿を書き遺そう」と心に決めた。

 私には東京で独立して住む一男一女と三人の孫がいる。地位も名誉も財産もない私が、後から来る者に遺してやれる形見はこれしかない、と思ってペンを執った。手帳の記述は片仮名混じりで、旧仮名づかい。夜、温習室で僅かの時間を盗んで書いたので、次のようにメモ式で文章にはなっていない。

一月一日(月) 晴

 夜間、敵機三度来襲し、遂に防空壕の中にて新年を迎う。寒さ厳しけれど心身爽快。お台場に昇る朝日が東京湾に金、銀の光を降らせ、新春にふさわしき景色なり。朝の軍歌、吟詠も腹の底から怒鳴る。なんとなく皆ニコニコして上級生徒に敬礼したき朝なり。朝食は雑煮で祝う。海経名物?の面石餅なれど、故郷を偲ぶには十分なり。今頃わが家でも家族そろって雑煮を食いおらん。何時の日か共に正月を迎え得べき。軽業のため待機となりて面白からず。洗濯などす。夜、演芸会あれど、外出した二、三号の中に帰校時間を切る者いて、食堂ストームにて絞らる。新年早々残念なり。頑張らん、今年こそ。ただ闘魂あるのみ。このような日記を、海軍など知らぬ者に、いかに理解させるかに、一番苦心した。真実を損なわないように、文章に肉を付け血を流そうと試みた。

 

振り返ってみれば、海経生活の中で最高に思い出深かったのは、五月三日から始まった乗艦実習であった。私は、「磐手」に乗ったが、三号の時、同分隊の一号生徒だった谷太三郎候補生が庶務主任だったことも楽しさを倍加させた。その時の日記の一部である。

蒸し暑く寝苦しい夜だった。巡検、消灯の後に仲間三人と上甲板に涼みに出た。と、艦尾から怒声が聞こえる。そっと近寄り、暗闇をすかして見ると、二人の水兵が四つんばいになり、下士官らしきのが精神棒で尻を殴っている。水兵は中年の召集兵らしい。「磐手精神を叩き込んでやる」とシゴイているのだ。その時、突然、仲間の一人が、「君たち、待ちたまえ」と叫んで近づいた。相手はわれわれが生徒だと知って、黙って引き揚げた。

 私はいま、声をかけたのが誰か、覚えていない。が、だれであれ、海軍生徒らしい勇気ある行為だったと誇りに思っている。あの頃日本は軍人同士が痛め合っている時ではなかったのだ。

 

終戦の日から四日間で、日記は十八ページにわたってぎっしり書き込まれている。次はその中の一節である。

八月十五日(水) 晴

  陛下の放送が終わると、全校生は温習室で謹慎を命ぜられた。軍人勅諭を謹書する者、目を閉じて考える者、みんな黙り込んで、敗戦という思いもかけぬ衝撃に耐えていた。帝国海軍は、海軍経理学校は、間もなく消滅するであろう。あれほど帰りたかった故郷にも、すぐ戻れるだろう。だが違う。私が夢にまで見たのは、紺の短ジャケットに短剣を吊り、晴れて休暇で帰省することであって、敗軍の生徒としてではなかった。

  悪夢のような長い時間が過ぎて、瀬戸内海に暮色が迫って来た。昨日までは窓という窓を暗幕で遮断したのに、もうその必要はないという。やがて淡路島に、海峡を行く船に、明かりがともりはじめた。それは垂水にきて、初めて見る光景だった。光は宵闇の進む中で次々増え、星のようにまたたいた。丘の上に建つ校舎の窓からその光を見ていると、私はそれまでこらえていた哀しみが、心の底からどっと吹き上げてきた。日本は敗れ、戦いは終わったのだ。                (昭六二、六、一二記)

【平成五年四月二十二日永眠】

 

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