大陸と海と

                 D 吉 田  俊 彦

 

三月二十九日に還暦を迎えた。三七会会員の中では最も遅いグループに入るであろう。既に三七会報で諸兄の還暦記を数多く読んで、今更わが還暦記でもなかろうと思っていたが、同期の中では少ない外地出身者の一人として、この節目に何か書いてみるのも意義あることと思い直し、遅ればせながらも筆を執った。

私は旧満洲(現中国東北地区)で生まれ育った。いわゆる満洲在留日本人二世である。経理学校入校までに、日本内地での生活歴はない。

満洲が現代史の中で注目されたのは、日清・日露の両戦争以降であるが、特に昭和の初期から数々の事件の舞台となり、日本と深い関わりを持っていたことは、今更説明するまでもない。我々の世代は、幼少年の時代から戦争との関わりを持ちながら育っているのであるが、私の場合、駐屯守備隊や事件の動向等を、ごく身近に見聞きしつつ育った実感がある。私の住んだ南部の満洲の地は、地平線に沈む太陽に象徴される広大な平野であり、凡そ、海を身近に想像する環境にはなかった。

その頃一度だけ、海とか海軍とかを身近に感じたことがある。小学校の修学旅行で旅順の戦跡めぐりがあり、旅順港口を船上から見学した時であった。閉塞隊の戦跡は、切り立った崖の上にある砲台の真下にあり、狭い港口、岩に砕ける波に、「広瀬中佐」の歌詞が重なり、身の引き締まる思いがしたことを覚えている。当時は日露戦争後三十五年を経た頃で、戦跡の保存に万全を尽くしていた時代でもあり、第二次大戦後四十余年を経た現在と比べ、はるかに生々しい印象を受けたように思う。

昭和十九年の「海軍生徒志願者心得」を見ると、外地の試験場は台北、京城、旅順に設けられている。三七会員の数人は旅順で受験した筈であるが、受験者総数は何人くらいだったのだろうか。

経理学校合格を知ったのは、九月上旬北部満洲の北緯四五度近くに位置する満蒙開拓団の、石油ランプしかない農家の一室であった。その頃、私は勤労奉仕隊の一員として、居住地から北へ約七百粁離れた農家にいた。食料は豊富で、のどかな農村であった。

海経合格は正に信じ難いことであった。創立後数年の満洲の一地方中学から入校できたことが、その後の私の人生を大きく変えたように思う。

昭和十九年十月から僅か一年足らずの生徒生活は、戦後の学生生活と比べれば、いかにも短いものであったが、極めて密度の高い時期であったと思う。戦後四十余年を経た現在でも、ビジネス制度、リーダー資質、企業戦略等様々な面から海軍士官教育が話題になっているが、自分が正にその直系に位置していて、人づくり教育の真髄にふれることができ、その上に、経理学校としての専門性と、少数教育によるきめの細かさを体験できたのだという意識の誇りは、今後、再び得られない宝として、持ち続けるつもりである。

昭和二十一年八月家族との再会、どん底からの生活等、引揚者の辿った径は厳しいものであったが、苦しい時など「如何に狂風」などよく愛唱したものである。

あれから四十年、焼け跡、闇市だった日本の国が、今日の形にまでなったのに比例して、私の家族も一応の生活ができるようになったが、私の住んだ「ふるさと」も学校も国も、消滅してしまい、夢か幻のようである。一方では、残留日本人孤児の悲劇がまだ続いている。

経理学校で学んだこと、旧満洲で生活したことの二つの史実は、あたかも、あざなえる縄の如く、今の私を様々な思いにさせている。                 (昭六三、一〇、二五記)



寄稿文目次へ戻る            次ページへ