こだわりの還暦

                  D 山 口  五 郎

 

 原稿と一緒に写真もと取り出して、つくづく見れば、六十年の年輪をしるした自分の顔というものは、見ていながら見たくないよぅな、不可思議なものである。自分のことを書く気持ちもこれと同じなのだと、筆を執る度にいつも思う。

 戦後四十年余いかに生きて来たか。よくよく反省したいような、顔を背けたいような、なんとも名状しがたい気持ちになるのである。俺はそういう人間なのだと思い諦めればそれでよいのだろうが、これから何年生きるか分からないが、儒夫も生きているうちに一度は起たねばならない、などと人並みに考えることもある。「もっと若ければ」と十年前にも考えたし、その十年前にも考えた。そして、誰かが「それが人生だ」と理解と同情と共感を示してくれるのを、心ひそかに待っている。還暦の日にもそう思った。今もそう思う。要するに進歩がないのである。なんとかせねばならぬという焦慮はあるが、何とも打開の途が見出せない。

 所詮、これが生来の体質なのだと考える。いよいよ苦しくなると、日に三度三度飲んでいる血圧降下剤のせいだと考える。吸い過ぎる煙草のせいだとも思ってみる。薬と煙草という矛盾に今さら気づいたふりをして、煙草を止めてみる。少しならいいだろうと言い訳をしながら、一日数本と限定づき喫煙を始める。またまた本数がふえて来る。要するに自堕落なのである。

 洒を飲みすぎたり、洒の上での大失敗をしたりということがないのを唯一の取り柄だと思っているかと思えば、何時間でも洒を飲んでいられる人に羨望の念を抱いたりもする。

 三人の愚息がそれぞれに生きて行けるようになると、父としてそれだけのことはしたのだと心中胸を張りたいところもあるし、尤も蛙の子は蛙の子に違いないが、親父よりもう少しましな蛙になってくれと、やや虫のよい願望を抱き、それとても、世の親として人並みのことだと、ゲーテの言葉を恣意的に引用して正当化するのである。

 たまに訪れる孫の顔を見れば無性にかわいいし、養育教育の責任のなさの有り難みを、妻と語っている。わが子が幼い頃は、かわいがるにしても、こうはいかなかったことを思い出す。

 三十三年前に長男が生まれた頃は、夫婦と子ども一人で都合三人だったわが家も、孫を加えて八人になった。その頂点に立つ私は、ルイ一四世の頃だったら、「俺は新潟山口組なり」といばれたかも知れない。その長男は未婚のまま外国へ行っているから、山口組の現有勢力は組長と姐御だけという微々たるものである。長男へたまに手紙を書く。「男児志を立てて郷関を出ず。学もし成らずんばエイズに死すとも帰らず」と。

 人によく聞かれる。「たまには国際電話をかけるか」。これだけのことを告げるのに、何故に電話が必要かと心中反論しているが、それは言葉に表さない。私の兄も妻の兄も、ずいぶん若くて戦争で死んだ。女とのいざこざを親に始末してもらっている学生のことを話すと、その親子に対する批判だけは、夫婦の間でぴたりと意見の一致を見る。                (昭六二、五、六記)

【平成四年四月三日永眠】

 

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