昔を振り返って

D 畑  美 作 雄

 

 国鉄を定年退職後、偶々関西鉄道学園に所属し科学技術学園高等学校と関係があったので、第二の勤めとして当校(科学技術財団により設立されたもので、企業や専修学校との技能連携を主体とした広域通信制高等学校。本校は東京都世田谷区にある)大阪分室の常勤講師を拝命して五年半、還暦を迎えて一年半が経過した。気だけは若いつもりだが、腰痛と膝の痛みで動きがさっぱり。通勤時、若い人達にどんどん追い抜かれるので、老いを強く感じる今日この頃である。次男は結婚、孫も二人いるが、長男と娘に縁がなく、この二人が片付くまではと今の勤めを頑張っている、

 昭和二十年の母の死、家の焼失で、焼け跡の廃屋で過ごした父、弟との男所帯のことが懐かしく思い出される。縁あって家内と結婚、三人の子供を得たが、私は月給の運搬人、家計と子育てに関しては女房殿に任せっきり。一方、私は、大いに海軍精神を発揮、仕事だ、剣道の練習だ、試合だ、謡曲のおさらいだ、会への出席だ、釣り、登山と遊びに精出すことに明け暮れ、何事にもワンマンで通してきた。

 昭和四十九年、長男が大学、次男が高二、娘が中三の時、嫌がる次男、娘を説き伏せて転校させ、四国の多度津で二年間の転勤生活を送ったが、娘の神戸への転校が儘ならず、一家の分散生活、私の自炊、娘の下宿生活と四年間に亘って大変な苦労を味わった。しかし、子供達が皆素直で人並みに育ってくれたのは、全く女房殿の並々ならぬ努力と、心から感謝している次第である。

 子洪達には親離れを奨励、実行させたが、まことに恥ずかしいことに、親の方で子離れが悪く、子供達が皆巣立ってしまうと、家内が毎日の生活に張りを失い、白髪を増し一度に年を寄せた。一昨年、娘が勤めを止めて家事を手伝い、次男も東京から八尾市へ転宅、時々孫を連れて帰って来るようになって元気を取り戻し、「今度は私が貴方に言う番だ」とばかり、女同志でいろいろ口喧しく煩わしい。馬の耳に念仏をきめ込むこともあったが、最近は私も、老いては子に従えで、子供には良き親父、孫達には良きお爺でありたいと考えるよう変わってきた。一つの進歩と自身思っている。

 明日をどう生きるか。今は若い時のように夢に向かって驀進といったことは夢のまた夢。昔はわざわざ暇を作って何事もやってきたが、現在は暇があっても何事かにかこつけて中止することが多い。と言って晴耕雨読には縁遠い。光陰矢の如しで年の経つのが早く、邯鄲の夢枕ではないが一年が本当にあっと言う間、徒らに馬齢を重ねることが続いている。

 目を転ずると、二十一世紀は目前に迫っている。科学技術の進歩発展には目覚ましいものがあり、世の中や国際関係がどのような変遷を遂げるのか、SF映画ではないがこの目で確かめたいとの思いは強い。

 されば生が必要だ。長生きの秘訣は食養生だ、適度の運動だとかいろいろ言われている。私はそれも必要と思うが、病は気からと言われている。悩まず、恨まず、逆らわず、不服を思わず、天の恵みに感謝しつつ、毎日毎日を「今日一日も満足した日であった」と、充実した気持ちで送ることが、無病で長生きすることになるのではなかろうかと考えている。

 五十歳になって自動二輪と乗用車の運転免許をとり、最近は動かぬ日のほうが多いが、バッテリーがあがらぬ程度には乗っている。国鉄時代には墓参にもこと欠いていたが、一寸ひと走り、墓参、お寺様への檀家としての勤め、田舎の人達との付き合いもでき、永年の懸案も解消した。長距離を走った後は、運転の疲労よりもむしろ「よく走つたな」との自己満足の方が大きい。青函トンネル、瀬戸大橋の開通も近い。関西空港、明石大橋への着工と完成の暁のことを考えると楽しみの多いことである。

 いずれにしても、二人の子供が片付けば、家内の苦労に報ゆるために、近い将来家内との外国旅行や国内のあちこちを自動車旅行したいと考えているが、これを実行するまでは決して死ねないぞ、と心に誓っている毎日である。      (昭六二、一二、一二記)

【平成四年七月四日永眠】

 

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