還暦の年に思う

                  D 蓮 井  昭 雄

 

 還暦がきたといっても、その直前まで他人事のようにしか考えられず、周囲に対しても、そのように振る舞ってきた私として、ここにきて今更外面の平静さを崩すのも大人気なく思えて、子供らの「何か祝い事を」というのも断ってしまった。とはいえ、「昭和」の歩みと重なりあった私の六十年、立ち止まって振り返れば、心中波立つものがないでもない。

 書店に並んだ「昭和史」の本を目にすると、つい手に取って開いてみたくなる。戦後はや四十二年、日本は敗戦後の混乱と欠乏を克服し、治安政情は安定して、今や経済力においてかっての戦勝諸国のそれを凌ぐという。

 がしかし、ひたすら走り続けてきたあまりに、何か大切なものを何処かに置き忘れてきてはいまいか。これを自分個人に置き換えて考えてみても、周りを見渡して自らの現在位置を確かめてみる余裕もないくらい慌ただしく過ぎていった歳月であった。その間、無思慮にも潮流に巻き込まれ、ただ流されてきただけでなかったかとの反省と悔恨が心の一角に澱みを作る。

 実社会での私の出発は、やはり敗戦の年、垂水の丘からであったと言えよう。たった十カ月余りの空白に過ぎなかったし、戦いのやんだ日本の、そして故里の山河は以前に変わらぬたたずまいであったが、突然に丘を下りた私には草木の緑も小川の水さえもギラギラと眼に痛い程刺激的で、そのくせ周りは信じがたい程静寂で、さながら白昼夢のさ中にあるように思えた。

余りにも急激な環境の変化が、若い心身にも耐えきれぬものであったのか、食欲はまるでなく、伏した身を起こすのも大儀な程の不調が続くこと約半歳、その間に出郷・復学のチャンスも意欲さえも失せていった。

 当面の凌ぎにと、隣町にある税務署の雇いに就職、重要ではあってもおよそ興味の持てない事務に月日を送るうち、同期やら知人らの復学の便りに接する度に羨望とも焦燥ともつかぬ感情を覚えるようになり、役所に備え付けの経済法律関係の図書を目にして向学心も呼び覚まされてきた。経理学校での碩学による講義の印象がまだ十分生々しかった頃である。

 就職の翌年、とりあえず挑戦した高文予備試験に合格したのがきっかけになって、照準を高文行政科に定めはしたが、この年に制度の改正で司法料(司法試験)への針路変更。翌二十三年の惨敗を薬に身の入った学習の効あってか、二十五年筆記試験に合格したものの、その年の口述試験に又も失敗。翌年ようやく四年越しの宿願達成。司法試験がまだ現在のような難関でなかったのが幸いであった。

 かくて法曹への道が開けはしたが、まだこの時点で、法曹人になりたいなどとは考えもしないことであった。独学の私にとって、受験は法律の学習を続けるための目標で、その到達度を測る指標となればというぐらいの気持ちからであった。

 しかし、この頃、当初は腰掛けの積もりであった税務署の仕事も、居座るうちには雇いから事務官に任官せざるを得ない羽目となり、それとともに責任も加わって、もはや生半可な姿勢では過ごされなくなり、いわば追い立てられるような具合で退職。そして二年間の司法修習のため八年ぶりの上京。靖国神社の桜が散ったと思うと東京の一角に「革命」の火の手が燃えあがるのを見た。メーデー事件であった。修習生にまだ軍関係諸校の出身者が目立つ頃であったが、同じ班に旧一号生徒の名を見つけてちょっと驚いたことであった。

 修習後の進路について、任官は既定方針であったが、裁判官、検察官のいずれを選択するかについては迷い且つ悩んだ。

 検事任官は二十九年、戦後もよぅやく落ち着きを取り戻してきた頃であった。曲折を経て、私の旅も、大方の行路は定まったわけであったが、そうなって安心というよりも、夢覚めた後の索漠とした感情の方が強かった。そのうえ、この先ずっと、組織、それも権力機関の最たるものに組み入れられて遂に呑み込まれてしまうかもしれない、というおそれとためらいもあった。

 この時期、「検事らしくない検事になってやろう」と身の程知らずの考えを持ったのも、つまりは中途半端な気持ちで検事になったことの、一種の後ろめたさに対する自己弁解であったかもしれない。

 スタートは福岡、引き続き九年余りの九州勤務。佐賀の地で自分の家族を持つことになった。それから希望して郷里の四国へ。七年近くの勤務の後に和歌山の地へ、そこから神戸を経て再び四国へ戻って五年余り。瀬戸大橋の着工の年、高松から対岸岡山の地へ、そして広島。ここが最後の勤務地となった。

 始めから数えて転勤すること十三回、一箇所平均二年三カ月余りという慌ただしさで、どの土地にも心底馴染むという暇はなかったが、それぞれの地の人情風俗にふれ、行きずりの客では味わえない体験ができたことは幸いであったといえる。

 法曹の中でも特に検事を選んだことに何の必然性もなく、その適性もないと自覚しながら、成り行きで任官してしまった私にしてはよくもこれまで勤務できたものと思う。あるいは、短日月ながら経理学校での日々の緊張と訓練に耐えたという自負心が、中途退却を許さなかったかとも思う。

 そして、ここ岡山の地で公証人となり、三年目に入って還暦。このあと任期一杯は務めたいと思ぅ。

 今ここで改めて振り返れば、十七歳の年から数えて四十三年、起伏や葛藤は少ないうえ、他の世界を覗き見する暇もなかった公務の一筋道、してみると定めて「職業病」の後遺症が、それと自覚のないままで身体のどこかに滓(おり)のように溜まっていはしまいか。「もう何も急ぐことはない。ゆっくりしろ」と心に言い聞かせてみても、年来の性急さは俄かに改まりそうにないし、絶えず何かをしていないと落ち着かないのもその故(せい)ではなかろうかと思ったりする。

 在官中、年齢を意識しだした十年前に、余暇の消化法にと始めた仏像彫刻を今も続けているのも、それがせめて幾らかはこの症状の緩和に役立ちはしないかと思ってである。還暦を直前にしたある日の明け方、私は浄光と妙音に満ちた浄土世界に身を置くという不思議な夢を見たことがある。また、以前私の彫った拙い小仏を贈った相手から、えらく感謝されたこともある。彫仏にはこんな功徳もある。

 前半は軍事、後半は経済と、ひたすら回り続けてきた昭和の歴史のベルトに巻き込まれ、流れに任せてここまできた庶民の一人として、所詮かなわぬ事とはいえ、ここで幾分でも自分を取り戻し、その知恵才覚で何かをしてみたいという思いがある。

 とりあえずは、興味をつなげる歴史上の人物につき、個人と社会とのかかわり合いなどを、なるべく多くの資料で多角的に探ってみたい。幸い読書にさける時間が以前の二、三倍はある。そして、仏像彫刻では、一仏でもいいから「自分の仏」といえるものを彫ってみたい。これが還暦を迎えた今、差し当たって思い且つ願うことである。                 (昭六二、五、一八記)

【平成十二年四月四日永眠】

 

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