あの日 一生忘れない日の思い出

D 鈴 木  章 友

 

 昭和二十年八月十五日、真夏の太陽がじりじりと照りつける暑い日だった。「本正午、陛下御自らのご放送がある。下着も取り替え第二種軍装(夏服正装)に着替えて校庭に集合せよ」との達しをうけ、海軍経理学校の二号生徒だった私は、神戸市外垂水の丘の校庭に整列した。

 すでに八月六日、広島に新型爆弾が投下され、今までの想像を絶する凄い威力を示し、四十粁四方は廃墟と化してしまった、と誰言うともなく聞こえて来た上に、更に八月九日、ソ連の突如一方的参戦、満州国に怒濤の如く侵入してきた。さすがに私達生徒も、隠しようもない不安と劣勢感をひしひしと味わい、口にこそ出さなかったが、これからどうなるのだろうと考えていた矢先だった。

 正午、初めて聞く陛下のお声は一種独特、私達は直立不動でしたたる汗を拭いもせず、一言も聞きもらすまいと緊張していた。やがて終わった。初めは身を挺して困難に当たれとのお言葉かと思ったが、やがて男泣きがそっちでもこっちでも始まった。ひたすら一途に大日本帝国のため我が身を投ぜんとしていた十六歳から二十歳の私達純真な海軍生徒に、地面が崩れて行くような感じ、どうしようもない悲しみと苦しみでこらえられない嗚咽にむせるばかりだった。

一時が過ぎた。温習室に帰り暫くして、次にどんな運命が待ち構えているだろうと考え始めたが、考える間もなく次々に教官から命令が飛んだ。「機密書類を焼き尽くせよ」。分厚い鉛の人った表紙の軍極秘の書類を始め、私達が持っていた一部の本まで炎々と丸二昼夜燃え続け、その火は真夏の夜に地獄の火のように照り映えていた。「武器を始末せよ」。武器と言っても三八式歩兵銃位しかなかったが、油を塗ってさらしで巻いて山中深く穴を掘り埋めた。再び掘り出して戦う日があると信じて。

 一夜明けた十六日、海軍省から伝令がサイドカーに乗って慌ただしく二回も三回も乗りつける。

 更に一夜明け十七日になった。アメ公の軍隊がもう大阪湾に侵入してきたとか、色々な話が少しずつ囁かれ伝わってきたが、何れも流言飛語で、決して惑わされるなとのきつい達しが届いた。

 緊張の連続の日々だった。ほんの一時だったが、校舎の窓から眺めた対岸の淡路島、眼下の須磨明石の夜の光景、今までの黒一色の町が、一斉に燈がともって、ぱあーっと明るくまぶしいばかりに輝いていた。「ああ、戦争は終わったんだ、もう空襲はないのだ」と、こみ上げるような喜びと安堵感が胸にじーんとにじんで来た。更に、一応課業を受けながら数日が過ぎた。「生徒全員に一旦休暇を与える。帰郷せよ」との達しがあり、その前夜校庭で紺野校長の仙台訛の少しずうずう弁の訓辞があり、「諸子等、別れの杯をとれ」と、サイダーが入ったコップを握り最後の乾杯をした。何遍も何遍もこらえようとしても、男泣きに泣けた。

 経理学校の激しい訓育で、のろまな小生は後にばかりなって悔しくて悔しくて涙を流したら、一号生徒に、男が泣いてよいのは、親が死んだ時と国が滅びる時だと訓戒を受けた。今日は仕方がない、国が滅びたのだ、泣いても仕方がないんだと自分に言いきかせた。

 やがて、帰郷のため凄く混む車中の人となった。その時、大工さんのような人が、「海軍の生徒さんですね、負けてしまって悲しいでしょう」と、矢張り嗚咽まじりに話しかけられ、声は出なかったが、また流涙してしまった。やっとの思いで家に帰った。父母に帰郷の挨拶をしてひと涙をこぼして、それでもう泣くのはおしまいだった。そして、今度は生きられた喜びをかみしめるようになった。

 経理学校から再起するよう指示が出て、経理学校入校前六カ月間在学した順天堂医専に一年遅れて復学させてもらったのは、その年の十二月初めだった。

 そして、どうやら昭和二十五年三月に卒業、昭和二十五年五月に医者だった父親と死別し、昭和二十六年九月に医師免許証を貰い、現在の田舎医者に落ち着いた。

(茨城県医師会会報に掲載されたものの転載)

 

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