還暦にあたリ戦後四十年の歩みを顧みて

                  C 成 川  菊 雄

 

 還暦にあたり改めて戦後四十年の我が歩みを顧みて、まこと「人間万事塞翁が馬」との感を深くする。

 終戦直後の第一行動は、海軍生徒としての気負いから、一以外に我が行くところなしと、三千人中たった十人のクジ引きとは思いつつも敢えて挑戦、そして玉砕したことである。

 捲土重来を期すゆとりもないまま、取りあえず英語をマスターすること肝要なりと、青山の英文科にもぐりこむ。記憶に残ることとては、E・S・S・のチェアマンとなり、各地の英語弁論大会などで下手な英語をぶったことか。次いで本番の知識として法律を修めるべく中央法科に入る。ここで再びE・S・S・チェアマンとなり、二年在学時又もや三千人中十人という外交官試験に挑戦、今度は第一次通過の十五人中に入るも第二次面接で惜敗する。十五人中唯一人の私大生のためか唯一人の二年生のためか、往時極めて不満に堪えず。当然の帰結として、労働省からILOジュネーブ駐在官の誘いあるも一蹴する。但し、これが契機となり学内に外交官研究室を創設し、現在外務省三十二人その他各界に有能の士を輩出するに至ったのはせめてもの慰めと言えようか。

 翌三年在学時は、上級六級職法律行政両部門パス。更に、大蔵省の採用試験にパスするも、局長クラスは私大出身では困難と判断し、大蔵事務官の名刺だけ作ったところで辞退、国税庁も同様辞退する。

 かくして、「鶏口となるも牛後となる勿れ」の心境下一転して民間会社への方向転換を決意するも、時既に遅し。たまたま大多喜中学時代、近くに工場のあった宮田工業に親近感を覚え、行く気もなしに受験し、採用通知を貰って慌てて断わったものを、ここにおいて採用取り消しの取り消しをお願いし、辛うじて人社式にすべり込むという始末。

 ところで、一年間の実習期間中、たまたま労組大会で、一席ぶったため、直後の役員選挙に思いもよらず書記長に当選、従って、最初の配属場所は、専従職のため会社ならぬ労組事務所となる。加えて全国金属執行委員を兼務した関係上、当時鬼の佐竹全金書記長にしごかれ、一方色々と身の回りまで面倒を見てもらった書記(ミス宮田・・編者注)が現在の我がカミサンとなるなど、文字通り我が人生に大いなる影響をもたらすに至った。ところで肝心の会社は、ホンダ、スズキとの企業競争に敗れ、オートバイ部門撤退、松下との業務提携、その上二部上場への移行といった予期せざる事態が相次いで起こり、こと志と異なる情勢の変化をみるに至った。ここにおいて、熟考するも既に妻帯し二児の父親たる身を如何せんで、そのまま定着、現在は常務を経て常勤監査役という次第。

 改めて顧みるに、我が人生は学校の英語乃至社会科の先生、労働省・大蔵省・国税庁のお役人、労組出身の代議士乃至県議、民間会社の重役と、色々人生街道を選択できる機会だけは人並み外れて多かったように思われる。世には所謂波瀾万丈の人生、そしてこれと好対照をなすその道一筋の人生とがあるが、我が人生はその何れとも思われず、強いて第三者的クールな言い方をもってすれぱ、曲がりくねり所々にバイパス開けあるも虎穴に入る勇気とてなく、ためらい覗いては引き返し、結局平凡にして無難な途を歩みし田舎紳士の生涯とも言うべきか。

幸いにして健康と家庭とに恵まれ、親の義務も既に完了(昭和五十六年四月長女結婚、長男就職し、同時に巣立つ)。現在、温暖の地湘南茅ケ崎において自宅、勤務先、会員ゴルフ場、会員倶楽部、碁会所、小唄稽古場、何れも同市内という誠に好条件に恵まれ、加えて商工会議所副会頭その他若干お手伝いをした関係上、社内のみならず、地域社会においても、まあまあの顔となり、時に興ずれば、こよなく愛する酒と美女を求めて、夜の町を彷徨することしばしという生活をエンジョイしている次第。

 本来なれば戦後の余生たるべき人生が、思いがけずこのように歩めたことは、もって可とすべきか。 

高齢化社会に対処し、今後は仕事と勉強の傍ら、長唄、小唄、ゴルフ、碁、麻雀等、趣味の世界において、残された得がたい人生を更に豊かにして、コクのある完結編とすべく努力したいと思う。

 ついでながら、前回の逗子総会において公言せし如く、仕事は何れ社会奉仕と名義変更を余儀なくされるであろうが、勉学のみは生涯一書生として大石主税に見習い、死の直前まで励みたいものと思う。                  (昭六一、二、二〇記)

 

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