私の盲腸

                  C 篠 塚  清 志

 

十三日の金曜日で仏滅の日。私は余り験をかつぐ方ではありませんが、昨年(昭和六十年)十二月、師走の十三日の金曜日、私の盲腸が急に痛み出しました。(盲腸炎はappendicitisアッペがペットネームです。)

 尤も、朝起きた時の症状は、右のギックリ腰のような痛みで、以前勤務した関係で、港区の高輸にある東京船員保険病院外科を訪れ、東大で二年先輩の永井副院長のご診察を頂きました。私は腰痛と、下腹膨満感を訴えましたが、早速白血球を調べられて「一三、〇〇〇あるから、アッペに間違いない。即日入院、点滴開始だ」と言われ、「一度帰宅して、寝間着など用意してよいですか」と申し上げましたが、「肥っている上に、五十九歳という年なので、腹膜炎を併発するといけないよ。安静に一晩眠ってよく考えてごらんなさい」と諭されました。

 明けて十二月十四日(土曜日)。私の住居の泉岳寺の「忠臣蔵の義士の討入り」の日に、朝起きたら、何と、ランツ、マックバーネー等々の急性虫垂炎特有の圧痛点が両国の花火のように右回盲部に集中して出て来ました。私が主治医や永井副院長らに申し上げるまでもなく、即刻、午前十一時半から約一時間四十分にわたり手術が施行されました。

 昭和大学麻酔科の米良先生のお話によると、私は肥っているので、普通の方は長さ六センチメートルの針で腰椎穿剌、麻酔する訳ですが、私の場合は七・五センチメートル位の大きい針を使われた由でした。普通の方の虫垂炎切除手術は三〜四十分で終わるのですが、私は肥満体なので、脂肪が多く、外科医も二人では足りず、もう一人の外科医に術中鈎引きを依頼、一時間半で漸く肥った虫垂を発見、腹膜炎直前の周囲を綺麗にして頂き、周囲組織も剖創の上、縫合糸も十二本と胃切除なみに十二分に手当てして手術が完了、病室に担送の上、安静の生活を始めました。

 平素元気で病臥の経験もなく、術後四日間はおとなしく安静に過ごしました。虫垂食という流動食、重湯は全く食指がわかず、お粥になってやっと箸が動きました。

 若い看護婦が毎朝検温、清拭、包帯交換、夜の湯たんぽ、夜回診後不眠時になぐさめてくれて、患者さんの気持ちがよく分かりました。

 夜は、三七会で皆と仲良く会食している夢とか、また医師会、眼科医会の夢などよく見ました。三七会の佐多先生のご令息の結婚式に日下君と一緒に参列したとき、古市君のご令嬢の結婚式のときのことなどが夢で思い出され、両父上の生徒の頃の横顔とオーバーラップして懐旧の念に耽ったこともありました。昨年十二月七日(土曜日)交通眼科学会のため北九州市小倉のステーションホテルで、産業医大の同期の吉松博教授と会食、色々お世話を頂き、空港まで送って頂いたこと、昨年度の三七会の東京例会幹事として、桜井和彦君を荏原病院にお見舞いに伺ったことなどが思い出されました。

 入院中、東京大学医学部長の眼科の三島教授、順天堂大学中島教授始め眼科学会、医師会の皆々様のお見舞いを頂きましたが、殊に三七会の昨年の東京例会の佐久間、柴田、田中幹事始め、古市、水谷、丸山、西尾生徒らの丁寧なお見舞い、加藤生徒、片山夫人らのお電話など心暖まるご高配は元気を奮い起たせるに足るものでした。

 尤も、「なに、篠塚が病気だって。何の病名だ、癌か?なんだ盲腸か」といった悪友もおられたようでしたが、これはまあ、佐藤指導官が、「篠塚生徒、盲腸でよかったね」とおっしゃって下さったお一言に尽きます。

 石井指導官の奥様からもご丁重なお見舞いを頂いたこともあり、紙上をかりて皆様にお礼を申し上げます。

 幸い長女も港区の東京済生会中央病院で眼科女医として勤務、長男も今春日大卒で駿河台病院の眼科に入局予定、次女は富士ゼロックスと、後継者問題は今後に希望はもてますが、何分まだまだ大変であります。

 五十歳代最後の思い出の盲腸。新春になり、慈恵医大の船橋名誉教授から「アッペでよかったですね。厄落としで十分静養を」と。そして、順天堂の中島教授からは「アッぺとは篠塚先生はお若いね。羨ましいよ」と冷やかされました。

 船橋教授は陸軍軍医中尉として中支戦線で、中島教授は海軍軍医中尉として内地で、共に若い兵隊さんの虫垂切除手術をいろいろご体験、稀な重症例で不幸な転帰を見ておられました。昔の名横綱玉錦も、また十年程前、別の横綱玉の島も盲腸から腹膜炎を併発、虎の門病院で落命されています。

 アッペ百年の虫垂切除の歴史を経て、今なお最も簡単で最も難しい外科手術はアッペの由。私達眼科医が大学の医局に入って初めて白内障の手術ができるのを水揚げといって、ビールとお寿司でお祝いするように、外科医はアッぺが一人前の手術者としての第一歩であり、虫垂切除手術は、海軍主計少尉候補生たるにふさわしい門出の如きものであります。

 還暦を前にして、まさに厄落としでありますが、私の手術をされた先生方は、「このような肥った方のオぺ、ことに前に病院の職員だった方のオペは、もう二度としたくないと思ったよ」とあとで回診の時笑っておられました。

 私の生徒の時の身元保証人は、内藤清五海軍軍楽少佐でしたが、やはり身元保証人を武蔵野音楽学校(今の音大)入学に際しお願いした姉も、同じく五十歳過ぎで盲腸になったので、やはり多少家系的なものがあるかも知れません。

 昨年は三七会東京例会幹事の末席を汚し、また、東京都医師会、眼科医学会など、いろいろ雑用やストレスが多く、やや暴飲暴食でした。まさに医者の不養生。そして海外出張も多く、貧乏暇なしでしたが、これを機会に反省して、今後も三七会はもとより、浴恩会、桜医会、水交会など諸先輩のご高導をお願い申し上げ、地道に高輪眼科において診療に励む考えであります。  (昭六一、三、九記)

【昭和六十一年九月二十二日永眠】

 

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