戦後からの還暦

                  C 梶 田  文 男

 

 数年前まで、夜不思議と同じパターンの夢を見ることがあった。それは、或る日突然、非常呼集がかかる。待ち構えていたように第一種軍装を身に着けて、垂水の山に急ぐ。そこで夢が消えるのである。当時のストレスの余韻なのか、懐旧からの、はかない願望によるものなのか、自分でも判然としない。

 三号時代は手の掛かる生徒であったし、二号になってからは、海軍の起居動作に習熟すると、反動的に落ち込んだ気分になることが多かった。士官の卵としてはまさに落第である。そんな生徒でも教官方は、若者を育ててやろうと一貫して愛情を注いで下さった。教官の方々全員の熱情には、当時の旧高専すべてを含めて考えても、これこそが教育というものだろうと思う。

 戦後は、府立高校(よく東京高校と間違えられるが別で、現在都立大学)に転入学したが、校長が高潔なクリスチャンで、クラスメイトにもゾル転に対する偏見が無く、他の一部の高校にあったような狭量な雰囲気が殆どなかったことは幸運であった。

 しかし、楽しかったのはこの頃までで、大学に入ってからは、「戦局必ずしも好転せず」の毎日で、アルバイトに明け暮れ、遂に当時のG・H・Q経済科学局で、為替レートを設定する統計作りの仕事を見つけ、大学に籍を置いたまま、正式に就職して三年間をたっぷり過ごし、五万円の退職金を頂戴してから、小松製作所に入社した。

 当時、池貝自動車と言った会社が後に合併されたのである。以後は、実に平々凡々、一時期の海外勤務を除けば、地方勤務の経験全く無く、東京近郊に住みついて、本社の中をあちこち回されて三十余年、先般退職して、今は小さな会社に再就職している。

 現在、小田急沿線に住んでいるが、ラッシュ時の混雑では有名な電車だから、押したり押されたりして、何とか定位置を確保するのがいつも多摩川の鉄橋を越すあたり、横須賀線や、この小田急で、一体何百回この川の上を往復したことだろう。こうした生活もそろそろ終わりかと思うと、正直なところほっとする。

 今年の秋、娘が結婚式を挙げることになった。娘は昭和三十五年の生まれだから、勿論戦争も戦後も歴史上の出来事にすぎない。「生活」とは文字通り「生活」であり、「娯楽」は「娯楽」そのもので、その上に何の形容詞も付かないのだが、こちらはそうは行かない。いつもどこか淀んで「戦後の」という視点が付いてしまう。「戦後の」生活、「戦後の」娯楽と言う風に。時々考え込んでしまう。 

最初に書いた不可解な夢を最近見なくなったのは、自分の心の中からも漸く戦後が消えつつあるのだろうか。

 この機会に戦争と戦後にこだわらずに生きて行けないものだろうか。昔の人の作った還暦という知恵を、こんな風に利用してみようかと思う。

 今年の夏は何となく、終戦以来の暑い長い夏だったよぅに思う。  

(昭六二、九、三記)

 

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