雑  記

                  C 飯 野  洋 二

 

 「還暦を迎え」或いは「還暦を迎えるにあたり」ということで一文を・・との日下兄からのお便りを頂き、ああ俺もそのような年齢に辿り着いたのかと、今さら思い知らされました。

 垂水の丘で別れ別れになって以来のことを思い出しますと、様々に記憶が甦ります。

 戦後の混乱のなかで、今では思い出したくもない仕事をやりながら、ともかく大学だけは卒業しようと、昭和二十年秋慶応大学予科二年に運よく編入し、学生と社会人の半々の生活を送りながら、昭和二十五年春無事に卒業し、同時に麒麟麦酒株式会社に入社しました。

 大阪支店を振り出しに、東京支店、新潟支店と、約二十年間支店を順次回り、昭和四十四年に本店に配属されました。若年使いべりはしないと思われていたためか、毎日に追われ、三七会の諸兄ともあまり縁のない生活をいたしておりましたが、新潟勤務当時、大森龍太郎、山口五郎、小川義男、黒川恒男、佐藤稔等の諸兄と、僅かな新潟県在住者で会合を持ち得たことが、今も懐かしく思い出されます。

 四十四年から五十四年まで本社勤務で、営業部、輸送部、事務管理部と、現場を離れておりましたが、五十四年から二年間仙台支店長として、再び第一線に復帰し、ビール、清涼飲料水と併せて、当時、新規参入したウイスキーの基盤確保と、拡販に努めましたが、五十六年から近畿コカコーラボトリング株式会社に出向し、現在に至っております。本籍麒麟麦酒株式会社、現住所近畿コカコーラボトリング株式会社というのが、現在の戸籍と言えます。いずれにしても四十年近く飲み物の関係の仕事だけを続けてきたことになります。あと数年はこの関係が続くことと思います。

 諸兄も同じと思いますが、戦後の復興期、高度成長期、そして低成長の時代と、様々な経験を重ねながら、今日を迎えることになりました。正直なところ毎日が戦いであり、後を顧みる余裕もなかったと言うのが、本音かと思います。前進あるのみで来たことの反省が、近時出てきたことも、たしかです。

「日々最善を」、「努力すれば必ず報いられる」と信じてきた過去の集積が、どのよぅな結果を齎すかは、未だ判然としてはおりません。

 会社社会との付き合いも先が見えてきましたが、最後まで恰好よくとは申しませんが、せめて納得のいく生活を送りたいと念じております。                (昭六二、九、一八記)

 

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