思い出すことなど        

M 松井邦彦夫人 松 井  澄 子

 

今年裏庭の柿の実は、どこから仰いで葉越しに数えても四個、鳥が啄んでへただけのが一個。自然生えなのか移り住んで十数年目にやっとなり始め、夫 邦彦は、子供時分よくこしらえていたと言いつつ、門脇に生い茂る笹竹を切ってはもぎ竿を作り、丁寧にもいでいました。初孫が来るとビニール傘を逆さに持たせて落としてやったり、大好物の一つでした。その笹群竹も門脇のは今秋とうとう枯れてしまい、たけ二メートル以上もあって日陰をつくっていたのが嘘のようです。

 門の反対側の石榴まで、ここ三年花も実もつけず、また葉が黄色く散り始めました。夫の生家の庭にもあり、思い出と共に愛でていて、地区のゲートボールのお仲間で写生なさる方に枝をあげていました。

 宮崎市の小野賢治様(三七期)の弟様が町内にいらして、前任地の中近東の或る国では石榴の木々を大事にしていた話なども伺いました。

 休日は近くの高幡不動尊の裏山まで散歩し、初夏の頃は紫陽花を眺めながら、道中の一寸した発見を楽しんでいました。

 三十七年間、寡黙な人でした。仏壇の写真に、何を書けばよいのか、ずっと幾度も尋ねましたが、やはりわかりません。今まで作文が必要なときは、いつも最後の添削をしてくれていました。

 お見合いで上京し、秋の鎌倉を一日歩き、地方の紅葉や自然の中での私の暮らしと違いを感じながらも、ハイヒールの疲れも大いにあり、よそゆきの笑顔が消えていました。帰郷の東京駅で渡されたのは、大仏次郎の「帰郷」や「宗方姉妹」、尾崎秀実の「愛情はふる星のごとく」などの本で、中に傍線が所々引いてあり、感想をこの次に聞かせて欲しいとありました。新婚旅行の奈良、京都行きでもバッグは、寺社仏閣・庭園・美術や和辻さんの本などでした。

 嫁いだ始めの頃は、歎異抄・ヒルティの幸福論・内村鑑三の聖書評論・ゲーテのこと・芭蕉のこと・・まるで自分がもうすぐ命がなくなるかのように、自分と同じ考え方に近づいて欲しいかのように、話してくれました。でも、私は情緒に乏しく、物事を深く考えない質なので、砂のように感じたでしょう。

 平成四年二度目の仕事の電子図書館を退職する日の写真を見ますと、周りの女性館員たちに囲まれて嬉しそう。文字を読むのが好きでしたので、図書館勤務は日々に感謝でした。

 このあと、ゲーテの道をやはり歩いてみたい、それにはまず英語が話せるよう勉強したい、何カ月か海外に留学したいと、パンフレットや本で調べ始めました。その頃から少し腰痛も始まり通院を始めています。妻子らの注意は聞く耳持たずで、高校大学でもご一緒の久米様に諭されて。まず欧州の一国イタリヤに十日余りの旅行に二人で参加しました。ダンテやルネサンスに憧れていましたし、晩冬の暖かい日が続き、穏やかな旅でした。

 歩けるようになったら、いつかロマンチック街道を歩きたい、その門に掲げた言葉が心地よいとも言っていました。

 英会話を夢の中の夢のように憧れていました。子供達にもそう願い、英語を学ばせようとする程反撥され、しかし、子達は今仕事では英語が必要と身にしみている由。

 家族には、日々の食事を片寄らないように心がけてくれ、彼は丈夫ではない体を、自分でとても気をつけて暮らしていました。体調のことはいつも木村様(三七期)に詳しく話して尋ね、こまごまと心優しくご診断のアドバイスを頂き安心しました。

 子供達が大きくなるにつれて「ふつうであれ」と願うようになりましたが、いわゆる「ふつう」までなかなか達せません。「誠心誠意」が大切と口癖だったのも、私達は風のように受け流しておりました。

 海軍経理学校では、戦時中でも、英語の授業がきちんと継続されていたし、学問をしっかり身につける教育は優れていたのではないかと話していました。

 夜間の急な点呼でも、迅速にできるように、持ち物や身だしなみを常時整えておくこと。シーツや着衣の畳み方など、子供達にも教えたりしました。

 垂水の時代でしょうか、同分隊生(これは水沼生徒だった由)と或る夜見回りで歩いているとき、或る家の窓からかすかに音楽が聞こえてきたそうです。その人が「未完成交響曲だ」と呟いたのを聞いて 彼は大変なカルチャーショックを受けたそうです。

 それまではいわゆるクラシックの曲を殆ど聴いたことがありませんでしたから。その後学生時代、食費を外国映画鑑賞代に割いたり、勤めてからはレコードやCDを聴いたり、音楽会に行ったりして、特にブラームスが好きでした。

 山歩きで気分が良いときは口笛やハーモニカを吹いたり、同郷人会では浄瑠璃の壷坂霊験記を語ったり(幼時に死別した父親の好きだったレコードがあり)、テレビの歌も聴いたりしていました。

 亡くなる年の五月、自宅療養中、巡回訪問診療所の方々に躑躅の花見に誘われましたが、雨が降り出し、待合室のロビーでその日三人の患者さんを囲み、十人余りの看護婦さん、先生、事務長さんと茶話会。終わりに皆で「みかんの花咲く丘」を歌う間、隣の車椅子の声が 珍しく大きく明るかったのです。彼のふるさと臼杵市の家のそばの丘の道からは海も見え、みかんの産地も同じ情景です。

 その訪問看護婦さんに、度々ベッドの脇に降りて片足で支えながら屈伸をやってみせて、「この病気は何なのですかねえ、片足はあまり痛くもなくこんなに屈伸できるのに」と問いかけたり、海軍のベッドカッターの話をしたりしていました。

 茶話会の一週間後、本人の希望で再検査入院をし、日毎に実技をして見せなくなり、代わりに海軍経理学校や両親の思い出をポツリポツリと。でも、同室の方々に大変気兼ねして囁く話し方なので、自宅に帰ることにしました。

 吉瀬様のことを話してましたので、お願いしていらして頂いたのですが、涙ばかりで話せなくなっており、暑いところを本当に申し訳ございませんでした。

 長い間、いつも久米孝彦様や木村一郎様や海軍経理学校の方々からお電話頂きますと、彼は若かった時代に戻っているような顔や声で話し続けておりました。三七会だよりを読みながらも同じでした。

 主人邦彦の亡きあとも、三七会の皆様から 続けてお声をかけて頂き、お会いすることができまして、誠に幸せでございます。心からお礼を申し上げます。

 あの時代の純粋な気持ちの十カ月程を、皆様と共有して過ごせた人生は、彼も満足と感謝でいっぱいであったと思います。三七会の皆様のご健康とご多幸を心よりお祈りいたします。



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