思い出のくさぐさ      

K 浜崎正信夫人 浜 崎  小枝子

 

 夫正信が逝きまして早八回目の祥月命日が巡ってこようとしております。平成二年一月の寒い朝、着任間もない青森県八戸で倒れてから、八年余りにわたる闘病の生活が始まりました。小康を得てほっとする時期もありましたが、大方は心の底に生と死の綱の引き合いのような危機感を抱き続けた日々でした。平成十年八月九日―それは二回目の心臓バイパス手術をうけて一年十カ月後のことでした―心不全に腎不全を併発し、とうとう力尽きてしまいました。

「ご主人は強い方ですね。精神力で病気に勝っている感じです」と担当医が申されたほど、闘う気力は充実しておりましたのに、本当に無念だったと思います。

 八戸での職を退いて東京に戻り、万全を期して一回目のバイパス手術をうけました。六十二歳の時でした。それからは、通院しながら原稿執筆をしたり、本を頼りに野菜づくりをしたり、十二分隊会に出席させて頂いたりと、それなりに前向きの生活を楽しんでおりました。何によらず徹底して取り組む性格でしたから、傍で見ている者としては可成りハラハラさせられましたが―。

 原稿は「溶接技術」という月刊誌に「溶接千一夜物語」の題名で、古代から現代までのさまざまな溶接について、柔らかい読み物をペンネームで書いておりました。「何事も完全でない方がよいだろう」との気持ちから、連載は九十九回でペンを擱いたと聞きました。亡くなる大分前に終章を編集者にお渡ししてあったそうで、没後二年半位毎月掲載の本が送られて来て感慨深いものがございました。

 私の運転で資料探しに図書館巡りをしたり、通院に付き添って明け暮れもし、二人だけのリユック一つの海外旅行で発作に襲われたりと、今ではすべて懐かしい思い出となりました。

 翻って終戦時のこと、経理学校から帰ったとき、家は空襲で失くなっており、疎開先で道端の僅かな空地を七歳の弟とやっと耕したのだそうです。種を播き葉っぱが食べられそうに育ったときに、突然土地の持ち主が来て全部取り上げられてしまったこと、買い出しに行った山の中で自転車がパンクして往生したことなどを、或る時、余程機嫌がよかったのでしょう、可笑しそうに懐かしげに話してくれました。終生自己について語らぬ人でしたので、この思い出話は私の心に強く残りました。

 姑は、生前「五人の子どもの中で、食べる物が無いときに丁度食べ盛りだったまあちゃんが、一番可哀想やった」と述懐しておりました。経理学校生徒時代も含めて戦中戦後の厳しくも貴重な体験を、私たち家族にもっと聞かせてほしかったとの思いはございます。

 最後の頃の作物づくりも、彼の心の裡では必要な何かだったのではと、今は推測するばかりです。もう少し長く命をいただけていたら、お互いにもっと肩の力が抜けた心境でしみじみと語り合うこともできたか、と返らぬ思いは尽きません。

 登山、スキー、ゴルフ、カメラは、お酒も煙草も嗜まない主人のストレス発散の場だったと思います。国内はもとよりヨーロッパの山々の写真アルバムは、自著の書籍とともに、書架に大きなスペースを占め、リビングの壁を飾り、いつも存在感を示してくれております。

 思えば時間の使い方の上手な人でした。研究一筋にひたむきに歩み通した主人の生き方は、若い日に培われた海軍軍人魂が堅牢な土台となっていたことと存じます。

 職歴、住所が転々とし、皆様との交流も思うに任せぬ状態でしたが、いつもご案内を頂き感謝しておりました。やっと旧交を温める時が来たと喜んでおりましたのに、残念でございます。ここに生前のご厚情を深く感謝申し上げます。(平一七、五、一八記)

 

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