夫・逝く     

          B 鈴木達正夫人 鈴 木  孝 子

                

白いつつじの花が咲き、続いてすずらん、クレマチス、ぼたんと、庭木の花たちは、白い色から咲きはじめ、夫の死を悼むかのように思えました。

とうとう私は一人になってしまいました。人間いつかは通る道、人生最大の悲しみが、私を包んでいます。

さて、三七会だよりをいつもご恵贈下さいまして有り難うございます。七八号(63・1・1発行)では、各分隊のお写真が載っておりまして、若き日の夫を見つけ、帽子(鈴木と記名)を胸にした凛々しい姿に、あの当時何を思い、どんな決意をしていたのであろうかと::。

私は、経理学校へいったことは、殆ど聞いておりませんでした。たしか、敗戦後旧制高校生となり、私宅が近くでしたので、(夫の父親が校長をしていた学校に姉が勤めお世話になりました)姉の関係から、よく遊びに参りました。

私は五人女姉妹ですから、姉妹は夫を兄のように慕い、よく遊んでもらったり、勉強を教えてもらいました。戦後の混乱期、食をはじめ大変苦労を強いられた時代でしたが、民主化は生きる希望につながっていきました。

大学は法科を希望していたようですが、父親は教師になれ!ということで、夫は中学の教師となりました。私も教職につきましたので、何かと共通意識を持ち、よく相談したり、子供への接し方等、大変教わることが多かったと思います。

ふだんは生徒さんの家の一室をお借りして、近所のお子さんの勉強を見てあげたり、夏休みは、映写機とスクリーンを持って、良い映画を見る会を設けたり、とにかく今でいうボランティアの教育活動を、私もお手伝いして、よく計画実行しました。

生徒達とは四つに組んで教育実践にうちこみました。学級通信を出し、家庭訪問を行い、地区毎の父母懇談会を組織する等、同僚に言わせれば、こうした民主的活動は夫が初めてではなかったかと。弱冠二十九歳で千六百名の静岡市教職員組合の委員長として組合発展のために若い情熱をかたむけたのでした。

補習廃止運動

宿日直廃止運動

学力テスト反対闘争

不当人事闘争

これらの運動の中で組合は存在感を示し、組合の権威は一段と高まっていきました。

組合が力を強め、権威を確立するにつれて、当局にはその存在が目の仇になっていきました。何とか組合の力を弱めようとしていた矢先、昭和四十年十月二十六日の日教組のストライキ闘争です。この闘いの中で起こった、組合内部のちょっとしたトラブルを、当局は最大限に悪用し、夫は懲戒免職処分となったのです。三十七歳の時でした。教育正常化運動と称して静岡市の教育界は嵐に吹き荒れました。

しかし、その中でも副委員長として再び当選を果たし、次第に分裂させられ少数派にされた第一組合の中で、確かな教育実践を継続していったことは、管理者のみちを選ばず、子供とともに平教員と覚悟をきめた、すがすがしいまでの仲間の情熱があったからこそ!!

さて、残念なことに、三十代で腎臓結石(手術の折の輸血が後の病気に発展していくのですが)、四十代で脳血栓、五十代でC型肝炎、六十代で肝臓癌と、悪い病気ばかりに取り付かれましたが、その都度生還して、病とも共生して、弱音を吐かない夫でした。病室では、患者さんの良き話し相手となり、皆さんを励ましました。

今年に入りまして、五回も救急車のお世話になり、入退院を繰り返しました。それでも、二、三日程度の治療で自宅に帰りましたので、その度毎に奇跡を祈り、信じておりました。病院内でも、夫の明るさ、頑張りは評判だったと主治医からお手紙をいただきました。

尊い命を百%以上、生き切った夫!我が夫ながら尊敬し、感謝している次第です。

病気の時、苦しいことを訴えたことはありませんでした。

亡くなる前日の午後から、少し息が荒くなりましたが、お水をしたためてあげると、美味しそうに飲み、「もういい」と、意識もしっかりしていました。

本年三月二十七日、二時四十三分、唇をキッとかみしめたかと思ったその時、「うーんっ」と力んで、夫は逝ってしまいました。

息子とずっと見守っておりましたから、思わず「お父さん、ご苦労様」と絶句しました。涙が溢れての永遠のお別れでした。

海経時代のことは一切聞いておりませんが、夫の頑張り、そして夫の最期は、海軍魂の良い意味でのあらわれであったのか!と思うのです。

現在、私は静岡平和資料センターで、展示と団体見学のお世話の仕事(ボランティア)をしております。

 

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