海軍思い出すまま 

―夫との来し方の記―

A 畠山 力夫人 畠 山  恒 子

 

戦後六十年!かって軍港だった横須賀、呉、佐世保そして江田島。昭和一桁生まれの私には、言葉として耳に、思い出として心に響く、終生忘れ得ない懐かしい地です。過日、生前畠山が昵懇の間柄でした、海兵七四期の知人と数十年ぶりに再会! 四方山話の折、ふと「もう忘却の彼方」と漏らされた淋しそうな表情に、改めて歳月の流れを実感し、畠山と歩んだ四十七年を振り返りました。

 昭和三十二年結婚当時、夫は、丸ビルに事務所を持つ葉煙草輸入業の商社に勤務しており、その後、三十四年、義兄(川口源兵衛)が起こした大陽酸素KKに入社、爾来平成七年、六十九歳で退職するまでの三十九年間(その間昭和三十八―四十一年広島勤務)が畠山にとって最も充実の時代だったのではと思います。

 仕事上のトラブル等、一切家庭に持ち込まず、佛頂面で家族に八ツ当たりも無く、浴びる程アルコールを飲み、深夜の帰宅が続いても、翌朝一人でシャキッと起床、元気に出社! 正に仕事人間、企業戦士そのものの人生でしたが、その陰に、心を許せる海経、呉一中時代を一緒に過ごした多くの素晴らしいお友達方との交流がございましたことが、畠山には仕事も含め精神面での大きな支えになっていたのではと確信しております。

 紅灯の巷での歓談は勿論、チーポンの牌遊び、そして何よりも楽しんだ休日のゴルフ! 山下様、加來様、島様、小林様、平島様、本当に皆様方との交流が活力源だったと存じます。

 入退院生活繰り返しの発端は、平成八年十二月、老人性急性肺炎で、院長夫妻と親交の深い個人病院に緊急入院。間一髪、九死に一生を得て生還! その後三年間は元気に過ごし、三七会総会にも楽しく参加、「市川君には完全に脱帽! 誰にでもできることではない」と三七会だよりのレポートやスナップ写真を前に、夫婦で総会の話題に花が咲き、いつも感謝々々でございました。

 けれど晩年は、ご乱行?が祟り、多臓器不全で、闘病の四年間となり、入退院を繰り返し、ご遠方より市川様、島様にも再度お見舞い頂き、特に加來様には、経営なさる会社工場と病院が至近距離でしたので、患者は退屈凌ぎに、再三勧誘電話! 我がままな患者に駆り出され、さぞご迷惑でいらしたことと恐縮するばかりでございました。

私共も年を重ね、二階から下への階段が少し困難となり、今後の生活を簡便にと考え、一昨年十二月、コンビニ、郵便局も近く、PLタワーも目前の、八階建て都市公団の八階に転居し、朝夕金剛山麓の風景を愛でながらの日々でしたが、移転後の生活は僅か七カ月余り。八月十日「少し体調が」と申し、病院に行き、即入院となり、一週間後の十七日午後、「うつ血性心不全」にて遠い世界へ旅立ってしまいました。

 けれど、唯一の救いは、夏休みで娘が横浜から來阪しており、八月一日、住まいのベランダから孫のチビ男児三人、娘夫婦と一緒にPL教団花火大会を最後まで楽しみ、孫と遊び婿と飲み哄笑、最愛の娘一家と賑やかな五日間を過ごし、良い思い出を胸に、黄泉の国へ参りましたので、畠山に悔いはなかったのではと思います。

 思い出は尽きませんが、平成十三年の年末から十四年の新年、一同十六名(孫八名)で過ごした、二泊三日伊勢松阪旅行が、家族揃っての最後の旅となり、爺と婆が孫に残せた素敵な「プレゼント」だったと嬉しく思っております。

 元旦は、日本古来の仕来り通り、一同威儀を正して、新年の祝膳を囲み、傑作だったことは、祖父、父、子、三世代男子十一名が一つの浴室で、「裸のラッシュ」と申し、風呂場で大騒ぎ、従兄弟同士の孫七名は大喜びだったことなど、二度と叶うことのないエピソードは沢山ありますが、将来孫達が、心の中に思い出として残してくれたらと願っています。

 広島在住の三年間、畠山は呉工場長として赴任。出身母校の地でもあり、水を得た魚で活躍できたようです。独身社員方は、昼夜を分かたず家庭の味を漁りに来宅、四歳二歳の息子と戯れ、クリスマスパーテイも、私宅で子供中心細やかに、社員旅行も家族同伴等々、皆さんとの繋がりは深く、あれから四十一年、今も当時の皆さんと親しい交流が続き、夫はそれなりに職務を果たしたのではと思っています。私も、当時は貧しいながら楽しい三年間でした。

 さて、私ごとの余談で恐縮に存じますが、横須賀で写真館を営んでおりました海軍御用達「松岡写真館」当主と父は従兄弟で、私は幼い頃から横須賀や大津の海でひと夏を過ごすなど、水兵さんや、士官さんは身近なお兄さん感覚! そして青春時代、凛々しい短剣姿、恰好良いネービーさんに憧れ、仄かに胸をときめかせて幾星霜! 海軍一家と申しても過言でない畠山の許に嫁ぎ、畠山の兄、姉が学生時代を過ごした大津の地。「お互いを知らず、同じ時代に横須賀や大津で・・・」と、枚挙にいとまがない思い出とともに、昨年他界された料亭「小松」の女将さんとの出会いなど、えにしの摩訶不思議を、今も義姉と語り会っております。

 最後になりましたが、夫葬儀の前夜「別れの会」には、大陽酸素皆様はじめ多数お越し頂き故人の思い出に浸り、加來様には最後まで、夫に寄り添って頂き、見事なお声で朗々と霊前に「鎮魂歌」を唱えて下さいまして、一同唯々感涙の泪ばかり。宴の後のピーンと張り詰めた静寂さを、終生忘れることはできません。

 また山下様のお心遣いで、生前親しくご交誼を頂きました大岩様、熊沢様、中村様、矢澤様から、長男共々東京へお招きに預かり、夫を偲びつつ楽しい歓談の時を過ごさせて頂き、本当に有り難く嬉しく存じております。

 そして近畿三七会では、三田会長様、市川様、島様には、暑い中を態々お参りに私宅までお運び頂き、そのうえ、市川様には、ご鄭重な追悼文を戴き、重ね重ねのご高配に深く感謝申し上げる次第です。このたびは、初参加の一月例会、山陰一泊旅行で、皆様から色々とお話を伺うことができ、海経の皆様の深い絆を肌で感じ、長命とは縁のなかった夫の生涯でしたが、沢山の温かい思い出に包まれて、本当に幸せだったと存じております。

 人生、山あり谷あり、必ずしも順風満帆とは言い難い四十七年間でしたが、『私共の人生は、おもしろい人生』(注)でした。

 皆様本当に有り難うございました。心からの感謝を籠めて、ペンを擱きます。

 

注『』内の言葉は、日経朝刊三月掲載の、

免疫学者 石坂公成氏「私の履歴書」巻末より。

 



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