@ 吉松 博夫人 吉  松   鞠

             

来年には主人(博…平成十年四月二日死去)の七回忌になります。「夕食は外に行こうね」と。日曜日なので息子夫婦に孫二人は大

喜びでした。余りに忙しい数年で、娘など、「自分の体のこと、考えて!!」と怒ってました。「明日から、マイペースの生活!!」と花束を沢山頂いて帰って来た翌日のこと。「ちょっと、お昼寝」と、ソファーに休んだまま、いつも口癖の「出発五分前」の掛け声もなく昇天してしまいました。四月一日エイプリルフールでしたので、死んだ真似をしているのかと思いました。皆様に「ボートマンらしく全力で漕ぎ尽くした」と慰めて頂きました。三組の夫婦と八人の孫を残してくれました。孫の一人は「世界で一番、大好きな、オジイチャン」と、骨壷に手を突っ込んでお骨を食べてしまいました。

自分の、お父様、弟、姉夫婦を、それはそれは大切にして、我が家は満員でしたが、私の父や母も大切に、甘えてくれました。

経理学校の話をすると、若い時、軍艦に乗ってた父と話が盛り上がります。主人が医学部を卒業する時、「慶応に二十五年いたけど、八年落第してボート漕がしてもらったの好かった。君も二、三年落第し給え」と後輩へ困る指導をします。

先月、私共が九州に赴任してた時、よくお参りさせて頂いた津屋崎の東郷神社から、お便りがありました。同封して頂いたご本の中に、思いがけず頭山満さんの書がありました。戦争中、テニアン島飛行場建設に父が出張し、戦後、原爆を積んだアメリカ機が、その基地から飛んだのを知り、ショックのようでしたが。父が帰国した時、頭山満さんが、お供の人々を連れて「これの、下の者たちを何人も助けてくれて」と詩の額を頂きました。南の島は風土病が多く、負傷や病気は手遅れになり死んでしまうので、追いかけて、馬乗りになって、ブンナグって治療したそうです。主人も一時、日之出町のドヤ街で、わざと針を飲んだりしてくる方もいて困る診療所に行っておりましたので、以上の話は絶対に秘密です。頭山さんのような方ばかりはおりません。「今日はポンコツ麻酔だ!!」と言う主人と父は一卵性双生児でした。

東北地方に赴任した時は、味戸さんご一家にお世話になりました。お手伝いさんが休むと全くお手上げの馬鹿女の私が、おかげ様で、味噌作り、漬物、山菜と、四斗樽を三つ並べました。後年、九州に赴任した時、お仲人を何回もすると山のように海産物が届き、鰤の大きいのを、お正月には包丁を研いで解体できるようになりました。

また、下の子が攻玉社高校の時は数学の先生は追いかけ回してくださり、国語の先生は一年議論して息子は「参った」と、アバレン坊を止めて医学部に入りました。十回以上も学校に呼ばれて、校長室で、本当に母親はペコペコしてました。それを校長先生は、「若殿ご修行ですな」とニコニコしていらして、卒業してから、校長先生は経理学校の校長先生でいらしたのがわかりました。

また、主人のお父様が亡くなられた時、芝中学校の国語の先生で、赤門前のお寺の住職ご夫妻が「近い方が良いよ」と九州の墓所から移させて頂き、奥の細道など何年もご一緒させて頂きました。今頃、ご夫妻に天国で議論を吹きかけて甘えていることでしょう。

父や母が「オモカジ イッパイ」、「ヨーソロ」などの会話をしていましたので、主人が亡くなった時は「Z旗を揚げなければ?」と思ったのですが、現実は、皆様のお励ましで考える暇もなく、毎日、ワイワイ過ごしております。子供三人が小さい時、ミッションスクールに入れて頂いて、神父様や、シスターのお導きで四十五年細々とボランティアを続けさせて頂いたのは、呆け防止でございました。主人を通して、お逢いできた皆々様のご縁に感謝の気持ちが一杯でございます。

有り難うございました。

 

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