私のスタンプ帖

                  J 山 上  博 

 

手元にスタンプ帖が二冊ある。昭和五十一年九月から始まっている。

範囲は、東京中小企業育成会社勤務時代の業務出張先で、静岡、山梨、長野、新潟以北と、故郷福山を中心としたものが多い。又、各葉には、スタンプした日付と若干のコメントが書かれている。それを見れば、立ち所にその折のもろもろのことが思い出せるわけである。

昔は、「一枚のキップから」記念スタンプ設置一覧というのが、列車時刻表の裏に載っていて、それを参考にして、たまには鈍行を利用してスタンプを集めたものである。今では、スタンプを置いている駅は殆どなくなってしまった。その意味では、このスタンプ帖は、私にとってささやかなお宝と言えるかも知れない。

小学生の頃、グリコに引換券を集めて送ると、世界各国のスタンプ集が手に入り、わくわくしながら外国の知識を学んだものである。

最近では、特定のイベント参加を促進させるためのスタンプラリーが企画されるようになった。

平成十三年に東海道宿駅制度四百年記念行事として、神奈川県内の東海道(裏街道を含む)の宿場関係十九カ所で、特別展会場が設けられた。そこに置かれた記念スタンプを押し、且つクイズに正解した者に対し、抽選の上ごほうびが与えられた。私は十一カ所を回り、立派なポシェットと東海道五十三次のコースターを頂いた。

道中いろいろな発見があった。藤沢宿では、遊行寺の入口にある真徳寺の墓地で、板割浅次郎の墓を見付けた。「浅次郎は国定忠治と別れた後、僧となり、中嶋勘助、勘太郎父子の菩提を弔い、明治二十六年七十四歳で没す。当寺の烈成和尚のことなり。」との立て札があった。

忠治の映画がはやったのは幼い頃だ、私は詳しいことは分からない。

そこで岩波新書「国定忠治」を読むことになった。それによるとストーリーは、「忠治が上州田部井村で賭場を開いていたところ、突如関東取締出役の捕り手が襲ってきた。忠治と日光の円蔵は、ともに何とか逃げ出したが、子分の多くが召し捕られた。暫くたって、小斉の親分勘助の密告によるものと判明した。勘助は子分浅次郎の伯父である。浅次郎は勘助としめし合わせて、オレをはめたなと、忠治は浅次郎を捕らえ切ろうとしたが、円蔵の忠告をいれて、浅次郎に勘助を殺させることにした。浅次郎は子分八名を伴って、大酔して眠っている勘助を襲って、二歳の太郎吉(勘太郎)をも殺し、赤城に戻る。忠治は首実検をして、浅次郎の無実が証明されたので、これを許した」。なお、同書によれば、その後、浅次郎は捕らわれ入牢中獄死したとあるが、前記真徳寺にある墓は、本人が明治まで生き延びたことを証明している。また、この事件に関して、「赤城の子守唄」では、史実では殺されたはずの勘太郎は生き返り、殺し手の浅次郎に背負われて登場する。間違いないよう。

ここで、入校後間もない頃、品川のクラブで第十一分隊の座興で、徳江生徒(太田宿出身)が八木節を披露する姿が、目の前に浮かんでくるのは、どうしたことか。

また、その近くに常光寺という古寺あり。公孫樹の落葉を掃き集め燃やしている老女に会い、暫し語らう。寺に嫁してきて以来、外に出たことは無いと言う。これが古い寺の女の生活かと思った。詩人野口米次郎の立派な墓碑があるが、同氏の子であり、墓碑の製作者であるノグチ・イサムの骨は、納骨室に預かったままとのこと。恐らく誰も供養する人がいないのかも知れないと、無常の感慨を深めた。

平成十五年には、横浜市の古民家めぐりスタンプラリー。六カ所をめぐれば上りである。江戸時代末期頃の名主の民家が里山に移築されており、せせらぎの音とともに、四季折々の花が目を楽しませてくれた。

次に三七会の関係では、平成十四年四月三日の三渓園。桜は既に散っていたが、二十六名の多数参加。後刻中華街に行き、愉快な一日を過ごしたとの記録あり。翌年三月は同園の梅花に魅せられて、三回訪れている。朝九時頃人はまばら。まさに開かんとする梅の精気が力強く迫ってくる。お目当ての臥龍梅(ガリョウバイ)が美しい姿を現す。このあたりの梅の木は、下村観山の名作「弱法師」(ヨロボシ)のモデルになったと立て札による説明があった。本物の画は、現在東京国立博物館が所蔵しているが、写しは園内の三渓記念会館で見られる。画面構成は、梅の枝が臥龍の如く右から左へ伸び、花がほころぶ。根元に高安通俊とその子俊徳丸が佇む。左上方に、落日がまんまるく画かれ、その赤い色は西方浄土の暖か味を感じさせる。梅花からその香りをよみとるには、その後、能の「弱法師」の解説を読んでからのことであった。物語の概要は次の通りである。

「河内の高安通俊は、人の告げ口で我が子俊徳丸を追い出したが、それを後悔してある年の二月、功徳のため天王寺で七日間の施しを行う。彼岸の中日に、盲目の青年が乞食の姿で来て施しを受ける。弱法師は梅の匂いを解し、天王寺の縁起を説く曲舞を語ってきかせる。通俊は、弱法師が自分の子のなれの果てであることに気付き、家へ連れ帰る。」

次に、平成十五年八月の近畿三七会「しまなみ海道の旅」については、かなり詳細な記録あり、また、スタンプでも結構残されている。浜井君の美声に打たれ、能に興味を持ち、その後、能について多少勉強。その成果は、前記「弱法師」の理解を深めたことである。

「光藤旅館」の料理は鯛の刺身、さざえ、海老の空揚げ、小魚等々。酒は川之江の旨酒。残念だが食べられなかったとある。翌朝出されたお新香に、かすかに梅酢をふくませてあった。心こもった上品な味にママの笑顔を思い出す。 

さて、味の探求もさりながら、年のせいか、このところ段々と古典や邦楽に親しみを抱くようになってきた。ある年老いた古美術商の方が、現在の芸術で古典から来ていないものはないと明言された。そう言えば、前述の「弱法師」は「法華経」に、俵万智の「トリアングル」は「源氏物語」に、そのもとがあるようだと合点するようになったのはごく最近である。

古典といえば「源氏物語」。「源氏物語」を読み始めたものの、「桐壺の巻」でエンコしてしまうのを「桐壺源氏」と言うそうだが、つたかつらの如く入り組んだ系図を片手に、根気をつないで、終わりまで読んでみたいと思っている。

 

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