私のレール&ウォーク(中締め)

                    D 東   正  恒

 

 文集の寄稿を延び延びにしているうちに、思いがけない方向から催促がやってきた。前立腺癌の宣告である。

 まだ五年やそこらは生きられると言われたし、今のところ自覚症状もなく元気に過ごしているが、今後どのように推移するのか皆目見当がつかないので、折角の文集に拙文を載せて頂けなくなっては残念と思い、ともかくも筆を執ることにした。ついては取りあえず癌が発見された経過を報告し、そのあと会社定年以来生涯のテーマと思い定めてきた「レール&ウォーク」の中締めをすることとする。

 毎年の成人病検査ではすべての項目が正常値で、自分でも当分長生きするつもりでいたのだが、昨秋(平成十四年)健診のついでに夜中の頻尿のことを訴えたところ、肛門からの触診で前立腺が大分肥大しているので血液検査をすることになり、そこから事態は急展開した。血液検査(PSA・前立腺癌特異抗原値の測定)の結果は正常値四以下のところなんと八六。これは癌の疑い濃厚ということで、さっそく泌尿器科の専門医を紹介された。

 専門医によるエコー診断でまず間違いなく癌、それも相当進行していると言われたときは、意外であり心外でもあったが、よく聞く「目の前が真っ暗」というようなことはなく、やはりそうかとごく冷静に受け止めた。自覚症状が全くないせいか、他人事のように感じたのかも知れない。

 そのあと年末までの検査(骨及びリンパ節への転移の有無、癌細胞の一部を採取する生検)の結果、転移はないが、癌の症状はC段階(前立腺の皮膜外に浸潤している)であることが判明した。

 治療方法の選択肢としては当然「手術」があるのだが、手術をしても、完治の可能性は低いうえに身体への負担や抗癌剤の副作用も大きいという。私としても、折角今体調が良いのに手術で撹乱されるのは忍びない。結局、年齢も考慮して手術は避け、「ホルモン療法+放射線照射」に止めるということで、医師と意見が一致した。前立腺癌の細胞にはA、B二種類あるので、男性ホルモン抑制の注射と内服薬でA細胞の増殖を抑え、それで効かないB細胞を放射線で叩くのである。ただし、それでも根治は困難なので、所詮は癌との共生、つまり進行が遅いといわれる前立腺癌と私の余命(七十五歳男性の平均余命は十年)との競争という路を選んだわけである。

 平成十五年十一月の現時点で体調に格別の変わりはないし、気にしても仕様がないので、従来通り「レール&ウォーク」を基調とする生活を続けている。

「レール&ウォーク」とは「鉄道乗り歩きと長距離ウォーキング」のことで、二十年前(昭和五十七年)に長年勤めた職場を定年退職したときに、爾後の生活の柱として標榜したテーマである。ゴルフは下手、囲碁にも関心がない、読書三昧といった柄でもない、絵や写真に凝るつもりもない、植物園芸に手を出す気にもならない、ペットを飼うのもイヤというわけで、結局のところ、しょっちゅう出歩くのが好きな私としては、やはり「子供のときからの鉄道好き」と「熟年で身についた歩きの魅力」を活かした趣味を追求するのが一番自然だと考えたのである。

 

 鉄道ファンにもいろいろあって、模型を作ったり走らせたりする趣味、写真撮影、車両の形式や構造の追究、切符類の収集等多岐に亘るが、私は電車・列車を眺めることと乗ることを楽しむ、いわばムード派のファンである。

 電車・列車が走る姿はまことに魅力的だ。例えばカーブして迫ってくる格好良さ…。さらに、電車に乗って走るときの快感や窓外の眺めは一段と楽しい。地形を縫って山河を渉っていく鉄道は、彫りの深い日本の国土の美しさを存分に見せてくれる。身近に見える自然のたたずまいに季節の移り変わりを実感するのも鉄道旅行の楽しみである。身びいきかも知れないが、鉄道は安全確実、スピードもほどほど、公害も少ない、それほどスペースをとらずに高速大量の輸送が可能、といった様々な利点で飛行機や自動車にまさっており、私は会社の出張などは別として、国内の移動で鉄道との付き合いを欠かしたことはなかった。

 このようなことをいつの頃から意識したかは定かでないが、とにかく自動車その他の交通手段に対しては覚えることのない魅力と愛着を、鉄道に対して持ち続けてきた。したがって、レール&ウォークを生涯テーマとして設定したからといって、改めて目標や計画を策定するようなことはなく、ごく自然に当面の目標として旧国鉄全線約二万キロの完乗を目指すことになったのである。

 小学六年の修学旅行(昭和十四年)で関西へ行ったときが私にとって初めての鉄道大旅行であるが、その後の日記帳や手帳の記録を拾って国鉄乗車の経歴を集計したところ、第一次定年の昭和五十七年九月末の時点で乗車距離合計(同一路線の重複乗車距離は含まず)は約一六、七〇〇キロとなっていた。その後第二の職場の仕事の合間を縫って未乗車線区の初乗りに勤しんだが、全国に散在する未乗車の九十線区約四、二〇〇キロに乗るために、既に乗った路線を何回も往復しなければならないことが多く、かなり効率が悪かった。とはいえ、もともと好きでやること、苦にならないどころか、季節が変わり時間帯が変われば同じ路線でも沿線の趣が異なり楽しみは尽きない。北海道の僻地にある路線に乗るために、当時健在だった青函連絡航路を四回も往復したが、青森湾の夜明け、夕闇迫る函館山、いずれも胸に迫る思い出の情景である。

 しかしながら、時あたかも国鉄経営合理化の動きが慌ただしく、過疎地の赤字路線の廃止が相次いだため、ある年の三月末には北海道と九州の二、三の路線が同時に廃線になることを知ったのが遅く、いずれを諦めるかずいぶん迷ったこともあった。

 結局、国鉄は昭和六十二年四月から分割民営化されて、現在の北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州・JR貨物の七社体制となったのであるが、私はその前年、昭和六十一年六月十日に鹿児島本線川内・八代間を乗ったのを最後に、同日現在で旅客営業を行っていた国鉄の全線二○、九二〇・八キロ(二百六十五線区)の完乗を果たしたのであった。私が完乗を目指している間に七線区九五・四キロが廃止されて乗ることができなかったのが残念であるが、これは致し方ない。

 

旧国鉄の全線完乗を果たしたあと暫くは、ウォークに傾斜することになった。そのきっかけとなったのは日本スリーデーマーチへの参加である。これは、毎秋埼玉県東松山市を中心として、東は荒川の河川敷、西は比企丘陵にまたがる地域に設定された距離別のコースを選んで、三日間、十万人近いウォーカーが各自のペースで歩く日本最大のウォーキングイベントである。私は最長の五〇キロコースに挑戦し、頑張ってかつ愉快に完歩したことで、長距離ウォークへの自信を深めるとともにその魅力を知った(昭和六十一年、第九回大会)。

 他人との競争ではなく、自分の気力とペースを維持して、長丁場を乗り切った人のすべてが勝利者であるという点が気に入り、その後、この大会には原則として毎年参加して昨年までに十四回完歩の実績を持っている。

 歩くことは人間の基本的動作の一つであるが、ウォーキングは、歩くこと自体を目的として歩くことである。健康の維持増進とか、糖尿病や腰痛の対症として歩くのは、結果としてその種の効用があっても構わないが、そのような目的が前面に出ると義務的になり禁欲的になって楽しくなくなり、歩きの真髄を見失う結果になりかねない。歩くときは無心で、楽しく、目に入る風物を素直に受け止める気持ちを持ちたい。「楽しみながら歩けば風の色が見えてくる」というキャッチフレーズがあるが、その通りである。

 乗り物では見過ごしてしまうであろうちょっとした史跡とか珍しい植物などが、歩いているとよく見えるものなのである。私の場合もそうした現場での見聞が連鎖的に視野を拡げ、普段はとかく疎遠な文学作品とか植物の生態などにもなにがしかの関心を持つ機会を与えられることが多い。

 私は、もともと歩くことが苦にならない性質(たち)だし、足にマメができることもない。努力して歩くという意識はサラサラないので、毎朝早く起きて定まったコースを歩くようなことは一切しない。ただ、長期的にみてコンスタントに歩くようには心掛けており、あまり間を置かずに独りで歩くなり行事に参加するなりしている。これが、私のウォークのスタイルである。

 昭和六十三年には日本歩け歩け協会(現在の日本ウォーキング協会)に入会し、全国各地の同協会傘下団体が主催する大会、小会、日帰り行事を選んで参加することが私のウォークの主体になった。同協会では、ウォーク奨励のため会員に手帳を渡して歩いた距離を自主的に記録させ、地球一周に相当する四万キロを目標として、千キロ単位で歩行距離認定を行っている。私の場合、直近の認定は一万五千キロである。また、協会主催の行事に年間二十五回以上参加した人に対する表彰制度があり、私は、平成四年以来十一年連続で完歩賞状とバッジを貰っている。

さらに世界的な組織として、ドイツに本部のある国際市民スポーツ連盟があり、日本もこれに加盟している。これが日本市民スポーツ連盟で、連盟公認の行事に限って、その参加回数と歩行距離の二本立てでウォークの実績を認定する制度がある。私は、これにも加入を申請し、行事参加の都度、所定のパスポートにスタンプを貰って実績を積み重ねている。このほうは、今のところ回数が三二五回、距離は七、五〇〇キロの認定となっている。

 一方、全国各地で催されるウォーキング大会を束ねる日本マーチング・リーグという連盟があり、前記の日本スリーデーマーチ(東松山)を筆頭とする十五大会が加盟している。いずれも二日または三日間の大会で、そのすべてに参加して完歩した人には、スーパーマスターウォーカーの称号が与えられることになっている。これは開催地が全国に跨っているために、日取りと地理的な制約のなかで参加すること自体が困難を伴うが、私は平成九年、沖縄の名護で行われたサントピア・緋桜マーチをもって全大会完歩を達成した。(当時は、次の十二大会がすべてであった。北見網走、洞爺湖畔、鳥海山麓、高崎、房総、東松山、河口湖畔、飯田、若狭三方五湖、加古川、倉敷、及び沖縄。)

 ところで、このようなウォーキングイベントの先達は、実はオランダなのである。彼の国では、九十年も前からオランダ国際フォーデーマーチが国を挙げての行事として行われている。毎年七月第三週の火曜日から金曜日までの四日間、老若男女を問わず、市民も軍隊も、欧米諸国からも参加して、東部高原のナイメーヘンで歩きの祭典が繰り広げられる。日本のスリーデーマーチも、これに参加して感動した人たちが是非我が国でも、ということになったのが端緒になっている。世界のウォーカーにとって、この大会に参加することは最高の名誉であり願望である。

 私も、第二の職場を終えたとき直ちに日本代表チームに加えてもらい、一日四○キロ、四日間で一六〇キロのコースを歩いてきた。たまたま例年より暑い夏で、短パンの逞しい金髪女性にいささか圧倒されそうな場面もあったが、最終日感激のパレードまで気分よく歩くことができた。参加資格の認定、登録、完歩の確認等厳格で行き届いた大会運営のシステムにも感心させられるものがあった(平成六年・第七十八回大会)。

 私が参加した海外のウォークとしてはこのほかに、(一)地球の裏をはだしで歩こう(平成二年)と(二)ウラジオストック・ツーデーマーチ(平成三年)がある。(一)では、オーストラリア東海岸ゴールドコーストで、鳴き砂の美しい浜辺を延々とはだしで歩いた。素足の快感が忘れられない。(二)は、たまたま出発の日にソ連邦崩壊が伝えられたが、日本海の荒波を船で越えて行ったウラジオはまだ平静で、現地の子供たちと交歓しながら歩いた。

 

こうして国鉄完乗後の十年ほどは、私の顔を見ると、「歩いていますか」が挨拶代りになるような傾向があったが、私としては、この間もレール&ウォークのバランスを忘れていたわけではない。

 先ず、分割民営化後のJRでは、津軽海峡線や瀬戸大橋線のような画期的な新線が開通し、一方では、旧国鉄から転換した第三セクター鉄道が、地域の期待を担って装いも新たに登場した。転換路線は概して厳しい経営環境ではあるが、なかには国鉄時代の未完成線を完成させてJRの幹線を補完するほどの存在となっているものもある。(例・北越急行、智頭急行、北近畿タンゴ鉄道)

 ウォークの傍ら、これらの路線に乗りに行ったことは勿論であるが、同時に次の目標として、当然浮揚する「私鉄乗り尽くし」にも取り掛かっていたのである。

 ところが、地方の私鉄は近年過疎化とモータリゼーションの波に押されて急速に衰退しつつある。代替のバス路線に変わってしまっては、鉄道ファンとしては興味がなくなる。そのため、先行きが長くなさそうなところから乗りに行かなければならなかった。例えば、青森の南部縦貫鉄道…名前は壮大だが内陸の町七戸と野辺地を結ぶ一日たった五本のディーゼル車、あるいは和歌山県の有田鉄道…わずか五・六キロの路線で、一日十四本のうち半数はバスによる運行。この種のところを先ずピックアップして東奔西走した。一方、東武、名鉄、近鉄等の大手私鉄は支線を多数持っているので、それぞれ各社の時刻表を購入して仔細に乗車順路を検討し、二泊三日程度の行程で、一纏めに乗り尽くす作戦をとった。会社によっては、一日あるいは二日間全線乗り放題という切符を出しているので、当然それを利用した。

 地方の鉄道では落魄の姿に寂しい思いをすることが多いが、必ずしもそうでもないと意を強くしたのは、最近改めて乗った広島電鉄である。広電は広島の市内電車であると同時に宮島口まで延びる郊外電車でもあるのだが、それが一系統で繁華街と住宅地を直結しており、市内ではキメ細かく客扱いをしていたバリアフリーの低床車が、一旦市外に出ると専用軌道を高速走行する。最近西欧で路面電車が見直されて、このかたちのLRT(LIGHT RAIL TRANSIT)が脚光を浴びている。図らずも、日本にもこうした未来志向の鉄道が存在していることを知って、何とも嬉しい。

 ところで、私鉄となると、電車・気動車による鉄道のほかにケーブルカーやロープウェーもあるし、近年増えてきたモノレールや新交通システムといったものもある。また、貨物輸送専業の会社もあれば、レジャーランドのミニトレインまである。乗り尽くしの対象範囲をどこまでにするかについては、レールファンそれぞれの持論があるようだが、私は一応、(一)レールあるいはガイドウェイに沿って自力で走行する、(二)地域間の旅客輸送を目的として営業運転を行う、の二条件を備えたものをもって鉄道としており、これに該当する私鉄の会社数は百六十、営業距離は約七、四五〇キロである。現時点(平成十五年十一月)において未だ乗っていない路線は、一〇〇キロ未満というところまで来ている。

 

再度、ウォークの話に戻るが、最近新たなジャンルとして加わったのは「街道歩き」である。もとの職場の仲間四人で、東海道四九〇キロ(平成十二年)、中山道五四〇キロ(同十三年)を、それぞれ二泊三日程度に分割してお江戸日本橋から京都三条大橋まで歩き通した。(東海道は延べ十六日、中山道は延べ二十二日)平成十四年には甲州道中二三〇キロ、日光街道一四〇キロも歩いた。

 四百年前に徳川幕府が制定した江戸五街道を始め古来の街道の道筋は、現在でもかなりはっきり存在しており、宿場もその面影を色濃く止めているところがいくつもある。旧道を忠実に辿るには、事前の資料入手と現地での確認に少なからぬ手間と努力を要するし、長丁場で忍耐を強いられる面もあるが、それはそれなりに意義があり、思い出に残る。まさに『旅』を実感できるウォークである。

 以上をもって、私のレール&ウォークの中締めとするが、「鉄道」も「歩き」もこれで終わりということはなく、いわば「無定量」、「無限定」の生涯テーマなのである。第一次定年以来レールとウォークの織り成す二十年の日々を、アルバイトも交えて結構忙しくも楽しく過ごしてきた私の後半生は、これまでのところ、まことに有意義であったと自負している。

 しかし、思わぬ癌の宣告により、それがいつまでも続くものではないことを思い知らされた以上、一応の総括をしておかなければと考え、これまでの実績を記述してみた次第である。(個々の行動記録に及べばキリがないので、項目的記述に止めた。)

 宴会の中締めは、ある人にとっては最早終わりであり、ある人にとっては二次会の始まりであるが、この中締めがどちらになるのかは私にも判らない。

 

 寄稿文目次へ戻る                         次ページへ