五十八年振りの韓国旅行

                 B 市 川  幸 平

             

イラク戦争が一応終結した今、北朝鮮の核保有発言にからみ国際論議も賑やかだ。

韓国に生まれ育ったものとして、朝鮮半島情勢には常に大きな関心を持ち、懐かしい古里、山河への思慕も強かった。しかしながら、戦後韓国への旅行ができるようになっても行く気が起こらず、誘われても断ってきた。その理由は、韓国の激しい反日運動にあった。過去の植民地統治に対しての何かにつけて謝罪と反省を要求し、「日帝の侵略によって犠牲となった韓国」を強調して騒ぎ立てる国へ行こうと思うことはなかった。それが五十八年振りに行く気になったのだ。中学同窓、李君の誘いによるもので、そのいきさつについては後述したい。

さて、私は韓国京城(ソール)に生まれ、四歳のとき忠清北道の道庁所在地である清州に移り、中学五年までここで育った。京城から汽車で三時間半ほどの南方で、春には長い堤防の桜並木が見事な景観を呈する美しい町であった。人口三万人のうち内地人(日本人)は、三千人位でお互いに仲良く平穏に暮らしていた。小学校五年のとき、内地人のために中学校が新設され、この公立清州第二中学校の二回生として入校した。この出来たての名もない田舎の中学校から海軍経理学校に合格したので、町中の話題となり、校長先生の喜びようはなかった。

中学の私のクラスにも韓国人が五、六名いた。地主など資産家の子供たちだ。常に首席を争った金君は、すばらしい頭脳の持ち主で戦後いち早くアメリカに移り、大学の物理学教授として名をあげた。日本文学、古文解釈では内地人もかなわなかった李君、医師の道へ進んだ。海軍軍医学校長を最後に退役して、仁川市で開業医をしている。

彼は、六年前に清州の日本人合同墓地が区画整理で取り潰しになるというとき、仁川から清州まで幾度か足を運び、墓地の移送地の折衝に当たってくれた。しかし、清州地域内どこでも受け入れを拒否され、最終的には仁川の自分の菩提寺に移してくれた。住職や檀家の人々を説得して敷地に墓碑を建て、永代供養の段取りまで世話してくれたのだ。反日感情の厳しい中、非難を覚悟でここまで尽くしてくれた彼の行為に対して、清州会の人は心から感謝感激した。

清州二中二回生のクラス会は、二年に一度日本各地持ち回りで開催していた。この度、この李君の提案で、韓国でとの話が出て実現することとなった。折角、李君が幹事役を引き受け、強い勧誘もあったので、私も参加の意を決し、ここに五十八年振りの韓国里帰りが実現したのである。

旅行は、三泊四日の日程で、仁川、京城、水原、清州を貸し切りバスで回って、韓国の現況をつぶさに見聞できた。懐かしの小学校、中学校の校庭に立つこともできた。小学校を去る前バスに乗り込んだとき、子供が一人バスの中に入ってきて挨拶をしてくれた。「六十年も前にこの学校で勉強した日本人の先輩に母校を訪ねてもらって、後輩の自分たちは大変嬉しい。どうか体に気をつけて長生きして下さい」と、誰から言われて取った行動でもなく、素朴な態度であり、嬉しく思った。

中学校は、中を教頭先生が案内してくれた。工専になり立派な校舎に建て替えられていた。清州には、大学が三つも出来、人口六十万人近い大都会に変貌していた。高層ビルも多く、道路も広く立派になっていた。私の育った家は、一時ホテルとして使われていたようだが、今は公園と道路の一部になっており、若干寂しい気もした。

今回の旅行を通じて、強く印象に残ったこと、感じたことなど思い出すままに左に列記してみた。

(一)   テレビ、新聞で報道されている激しい反日運動については、一般の人は割に平静である。マスコミの煽動誇張が多いのでは。

(二)   ソール市及び近郊には高層マンションが林立し、道路の整備も進んでおり、町全体に活気が溢れている。

(三)   子供時代の印象では、山は緑が少なくはげて赤茶けていたが、今では樹木が育ち青々としている。

(四)   公衆便所が綺麗で、落書きなど見当たらない。

(五)   自動車は、すべて韓国車で、日本の車にはとうとう一台もお目にかかれなかった。

(六)   道路標識、広告、看板の文字は、すべてハングル語で意味が分からない。(旅行者には不便であるが、国産車愛用といい、強いナショナリズムの表れだ。)

(七)   若者の服装、髪型など端正である。高校生も、日本で見られるだらしない恰好など見当たらない。

 

 以上のごとく、私の韓国旅行で得た印象は思いのほかにすばらしかった。若者の姿、清潔な町、わが国の現状と比べてあまりにも違い過ぎて、日本の将来への危惧さえ覚えた。

 朝鮮戦争で父親を亡くした息子さんが二人、夜の会合に出席してくれた。挨拶で、「亡き父の中学のクラスの方たちが大勢お出でになったことは、地下の父がどんなにか喜んでいることでしょう。よくいらして下さいました。有り難うございました」と述べられた。反対の立場だったら、私の息子は、このような席に顔を出し、このような挨拶をしてくれるだろうかと、つくづく考えさせられたのである。

 

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