アジアと日本への思い

―東南アジアとの学術交流から―

                  P 山  本   出

 

日本学術振興会による東南アジアとの学術交流事業において、勤務先の東京農業大学が農学分野の全国センターに指定され、私は、その当初(一九七八)から十三年間これに携わったが、その間思うこと多く、その二、三を記す。

第一は、人間関係である。いくら援助を受けても誇りを傷つけられては相手は承服しない。また、国家間でいくら援助した、いくら援助をかちとったというレベルに留まり、実を伴わない例を垣間見てきた。金は、人を通じて生きも死にもする。国際交流は、相手国の人を活かすという奉仕の念が心底にあってほしい。それをいうのは、来日者の帰国後の言動に、ホストの日本人、周りの人間の心・態度に触れることがあるからである。事業目的が実を結ぶも泡のごとく消え去るのも、一にかかって事業に関与した一人一人のグラスルーツ活動にかかっていると信じている。

第二は、学術交流についてである。まずは、学術交流の下流移転である。明治の文明開化の時代、いわゆるお抱え教師が日本の各分野の進展に寄与した功績は大きく、各分野の発展史に名を留めている。日本から多数の研究者が東南アジアに赴いているが、某国の某学問分野の発展は某日本人によるところが大である、となって欲しいと心中期待してきた。今日、先進各国が途上国支援に参加しており、支援する側は支援される側に評価されている。それだけに、日本と途上国との比較ではなく、世界各国との比較においてベストを提示しなければならない。もう一つは、学術交流の国際化である。一国の枠を超えた問題・学術対象は多々あり、国際協力なしには対応できない。この場合、相手国の参加者はパートナーとして同等関係、場合によっては、先方が主でわれわれが従となる。学術の師となる場合、同僚となる場合、弟子となる場合の使い分けの心配りが要る。さらに途上国との交流は、日本人に未知の対象・活動分野をひらいて見せてくれる。私自身はこの地の豊富な熱帯植物資源に魅せられ、十九世紀にイギリス人、オランダ人ができず、二十世紀の我々ならできる分野の一つとして植物中の農薬・医薬活性を示す微量成分の調査に乗り出し、また、その過程で伝統医薬の処方を伝えるロンタラ(ヤシの葉に印刻した文書)の散逸を憂え、情報の収集・保存・活用に当たった。国際交流の枠組みなしにはできない事柄であった。最新機器をもって最先端分野に挑むことも大事であるが、斧を片手に密林に分け入り、未踏の分野を開拓するのも学問である。東南アジアとの交流には、こういった面があることを力説したい。

第三は、使命感の問題である。大戦中海経にいたせいか、この戦争は何であったか、亡くなった方は無駄死にであったか、折に触れて反芻してきた。日本は、国内的にはそれなりの立派な文化を持ちながら、世界史への登場・インパクトはまずなかったといって過言ではない。戦後の経済繁栄も怪しく、単なる経済大国だけでは人類の歴史にあまり残らないようである。やはり政治、文化の卓越性がなければならない。日露戦争の勝利は被支配民族の目覚めをもたらした。これが伏線となり、今次大戦で日本が暴れ、敗戦とはいえ、近隣諸国が隷属状態から独立するに至ったことは事実であるが、これは自ら誇るべきことではない。中国の知識人は、ここで縊れば、あるいはここで臥薪嘗胆すれば、義人として青史に残ると出処進退に歴史を意識したという。人の一生が問われるごとく、後世、日本はその最盛期に何をしたかが問われる時があろう。活力あるうちに世界史にどういう位置を占めるかを意識して、国の大方針を定め、意識して行動すべきではなかろうか。

戦後の歴史を通じて日本がアジア地域の発展に寄与し、東・東南アジア圏が世界史に残る政治・経済・文化的発展を遂げた時、初めて太平洋戦争の意義が評価され、これらと絡めて日本が青史に名を留める、おそらく唯一の機会かと思われる。学術交流は、その一端を担うものである。

戦時に倒れた方々に対し、それが侵略戦争だったから犬死にだとか、国に尽くしたが故に祭られた靖国神社に参拝すべきとか、このことを論じるよりも、生き残った者、新しい世代の者が、日本を世界史で誇るべき存在になるよう努力して、そのようになることが、非命に倒れた方々を含めて、我々の死んだまま生きたことの意義付けになるのではなかろうか。

 

 

寄稿文目次へ戻る