旧 海 軍 雑 感

                 O 清 木  尚 芳

          

一、喜寿を越えるか越えないかという老境に至って、十七歳の少年の時、体験した十カ月余の海軍経理学校生活について自分なりに纏めてみたいと考えるようになった。しかし、往事茫々、うまく纏められない。そこで、とりとめのないまま、私の中の海軍について書いてみることにする。 

二、私は、子供の頃から船を見るのが大好きで、よく大阪築港へ出かけた。そして、少年倶楽部の「日米もし戦わば」などを読み耽って胸を躍らせ、「海軍」が好きになった。百トン位の小型旅客船に乗って神戸港の和田岬灯台から出港或いは入港のとき、三菱重工業や川崎重工の造船所に繋がれている潜水艦を見ては、今日は何隻と喜んでいたものだ。今も海軍に関係する気楽に読める書を手当たり次第読んでいる。系統的に読んでいるのではなく、興味本位であるから、諸兄もよく知っている事ばかりかも知れないが、印象深いのはやはり戦史である。日本海海戦、ミッドウェイ海戦、レイテ沖海戦などがあるが、負け戦より勝ち戦が読んで面白いので、日本海海戦について、世上未だ流布していないだろうと思われることに触れてみたい。

二次大戦後、「極秘明治三十七、八年海戦史」(以下、極秘海戦史)という資料が発見されて、日本海海戦に関するこれまでの定説が覆された。

一つはバルチック艦隊が対馬海峡に来るか、迎撃のためそのコースの予想は海戦の帰趨に関する大問題であった。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では、東郷連合艦隊司令長官が対馬海峡を通ると確信していたことになっている。ところが、極秘海戦史によって「密封命令」の存在が明らかにされた。これは、明治三十八年五月二十四日、東郷司令長官から連合艦隊の各戦隊司令部に対し交付され、指定時刻に初めて開封して実行する命令であって、内容は北進即ち津軽海峡への移動を命ずるものであった。

連合艦隊は対馬海峡に来るとの前提で、鎮海湾に待機していたのであるが、バルチック艦隊は五月十九日以後消息が途絶えて中々現れない。もし、太平洋へ回り津軽海峡からウラジオストックへ入られては一大事である。そこで、連合艦隊司令部は、北方移動の方針に傾きかけた。旗艦「三笠」で第二艦隊上村彦之丞司令長官はじめ各司令官、参謀長、参謀らが集まって軍議が行われ、津軽海峡説即ち北方移動方針に固まりかかったとき、第二艦隊参謀長藤井較一大佐(後に大将)が一人、敵が津軽海峡に向かったと断ずるのは根拠不十分と頑張った。そこへ遅参した島村速雄第二戦隊司令官は、新情報が入るまで鎮海湾に留まった方が宜しいと述べて、藤井意見に与した。そこで、東郷長官に具申され、長官はしばし自室で沈思黙考のあと、敵は対馬を通ると決裁したという。

連合艦隊は、対馬説を確信して待ったのではなく、また、東郷司令長官の一声で決まったわけではなく、万一の場合も考え、北進の密封命令を用意していた。そして五月二十六日、中枢では、津軽説か対馬説か議論が火花を散らしていたのである。密封命令の存在は、野村実著「日本海海戦の真実」のほか、半藤一利著「日本海軍の興亡」にも記述されている。

次は、有名なT字戦法である。その考案者は、秋山真之参謀というのが定説であった。「坂の上の雲」では、敵八千mの距離に近づいたとき、長官の右手が高く上がり、左へ向いて半円を描くように一転した。安保清種砲術長も加藤友三郎参謀長も瞬間目を疑った程、予想外であったようである。しかし、野村実著はT字戦法は日露戦争前から決定していた「連合艦隊戦策」に明記されていたという。同書によれば、連合艦隊はロシアの旅順艦隊との旅順沖、黄海の各海戦でT字戦法を試みて失敗したが、上村彦之丞司令長官の率いる第二艦隊がウラジオ艦隊との蔚山沖海戦で成功し、このようなリハーサルの結果、T字戦法が本番で見事成功したという。しかも、T字戦法は一回だけでなくバルチック艦隊を撃滅するまで、その北進及び逃亡を押さえるべく何度も繰り返されている。

勝因はほかにもある。例えは速力である。日本の戦艦はすべて十八ノットを超え、一等巡洋艦は二十ノットを超えるのに対し、ロシアの戦艦は最高十八ノット(スウォーロフ)で、旧式のニコライ一世などはせいぜい十五ノットである。しかも本国を出てからドック入りしてないので、艦底にフジツボ、カキなど貝殻が付着して速力が落ちる。また砲力は連合艦隊の方が上であり、その上命中率も猛訓練の結果高レベルに達していたとか、いろんなことの積み上げが完勝という結果をもたらしたと思うのである。天佑神助とか精神力のみで勝ったのではない。

三、次に海軍善玉説に触れてみたい。海軍は米内、山本、井上の三提督が日独伊三国同盟締結に反対し、対米英開戦に反対であったことは今更言うまでもない。そして、ポツダム宣言を受諾し、戦を終わらせた時の首相は鈴木貫太郎海軍大将である。高木惣吉少将の自伝的日本海軍始末記(続)によれば、海軍省教育局長の同少将は早くも昭和十九年八月末頃(我々の入校直前)、井上次官から密かに終戦工作の下準備を命ぜられている。

海軍出身のお偉い方々が、本土決戦を呼号してやまない陸軍を押さえ、昭和天皇の聖断によって終戦に持ち込んだことはよく知られている。このようなところから海軍善玉、陸軍悪玉論が流布し、僅かな期間でも海軍に籍を置いた者としてはいささか気分が宜しい。

雑誌「文芸春秋」の平成十五年十月号に、秦郁彦氏は「海軍善玉」、「陸軍悪玉」は本当か?との一文を寄せている。趣旨は、「同罪論」で、イメージ的に陸軍が損、海軍が得をしているというようである。その掲げる要因の中で「海軍士官の真っ白な制服に短剣のファッションが人気の決め手だったのか」、「政治力に欠ける旧海軍」、「海軍に入ったエリート学生は、短現とか予備学生として最初から士官待遇を受け、そのノスタルジアから旧海軍を礼賛する」との点は三つとも同感である。しかし、旧海軍の中にも、親独派や狂気に近い精神主義者もいたし、五・一五事件、統帥の外道に走り、無惨にも、大勢の若者を特攻の無駄死に追込んだことなど批判さるべき点も多い。旧海軍が末期症状にあり、同年輩の人がどんどん戦死してゆくとき、我々は隔離されたように、まともな訓育、学課教育を受けていた。

四、終戦時、陸軍は一六九個師団五四七万、海軍は二四二万の兵力を擁していたという。若者はみんな軍人にされていた感じがする位である。ところで、多くの若者の属する海軍の底辺では、凄惨な体罰と恐怖心による命令服従の強制が行われていたことが、戦後明らかになってきた。陸軍の徴兵された兵隊が内務班でしごかれる、これは、日本の若者が社会に受け入れてもらうためのイニシエーション(通過儀礼)であった。ところが、戦争が長引き、軍隊内の私刑は苛烈になってゆくばかりで、海軍の海兵団での水兵に対する暴力はもとより、難しい試験を突破して入って来た甲種予科練、乙種予科練、丙種予科練に対する下士官教員の理不尽な暴力的制裁は、人格無視のサディスティックなものであったという。

空の士官、下士官を夢みて海軍に入った十六、七歳の少年の若木のような肉体に、理由も何もなく剥き出しの暴力を軍人精神注入の名の下に加えてあきたりなかった。このことは、森史朗著「敷島隊の五人―海軍大尉関行男の生涯」に詳述されている。

かような暴力教育を受け、飛行技術を習得したが未だ未熟なまま、特攻機に乗せられて散華した、甲種予科練、乙種予科練、丙種予科練の若者の人生は一体何だったのか、痛惜の極みである。組織の底部のこの悲惨は、海軍の大きな恥部であろう。

「殴らないと兵隊は強くならない」との格言がある。軍人の鋳型にはめてゆくために殴って矯正することは、ある程度は許されるかも知れない。しかし、前述のように、非人間的な苛めのためだけの残酷な暴力は、どこから見ても許されるべきものではない。なぜこのような蛮行が横行したのであろうか。男だけの閉鎖社会、排他性、階級差(入隊の前後)が絶対の、服従の社会で、しかも、物量戦により敗色濃厚になってくると、集団的に焦り、すさみが拡がり、逆に精神主義に逃避し、暴力勝手放題とエスカレートしたのではなかろうか。

五、ところで、わが海経の鉄拳制裁、鉄拳修正はどうであったか。どう評価さるべきか。今や、悪い夢となって忘れてしまったようである。

豊田穣氏は、その著「江田島教育」において、「殴る」ということの意味を二通りあるとし、まず、第一は、もっとも普通の意味で今後このような規則に違反したことをしないように教えさとすもの。第二は、これが根本であるが、海軍将校生徒たるもの常に鉄拳の嵐に耐えて、己を強靭な軍人に仕上げるべきだと説明している。また、江田島では頬を拳で殴る。一発で終わりとする。気絶するまで叩きのめすということは絶対にない。この場合、大切なのは殴る側の心(スピリット)のあり方であると言われる。

まことに妥当な「殴る哲学」である。豊田氏の言われるように、同じ一発でも、相手の向上のために一撃を加えるのと、憎しみをこめて痛めつけるのとでは、受ける側の反応が異なる。殴る哲学の境地は、殴られる側、殴る側を経験して初めて到達できるのではないだろうか。豊田氏の言われるスピリットとは、その人の人格そのものである。娑婆気を抜いてやる、デレデレするな、たるんでる、気合いを入れてやるなど、怒鳴られて、確たる理由がないのに殴られまくるのは、災難としか言いようがない。そこに心の通い合うものが生まれるであろうか。考えてみれば、殴る側もその行為に全人格をかけるのであるから、その役割は中々難しいものがあり悩むであろう。私は殴る側になれずに済んだことを幸せと思う。

私は、体格はひょろひょろ型で、体力も精神力もなかった。しかし、時代は軍国主義一色で、いずれ軍隊にとられる運命にあると悟り、軍需工場へ通うよりもと軍学校を志願したに過ぎない。いわば筋金入りではなく、軍学校へ迷い込んだのである。訓育と怒号、鉄拳の嵐で疲労困憊し、教室では居眠りばかりであった。かような過酷な生徒生活の中でも、クラスメイトには平然と耐え抜いて軍人らしく成長する御仁もあった。今考えると、その人たちと私の違いは、体力の強弱も関係するが、その心構えにあると思う。その人たちは軍人に憧れ、軍人たるべく自己練磨を自ら志していたが、私は、中学の生活に倦み、軍需工場から抜け出すことが主であって、軍学校に入れば軍人に仕上げてもらえるという浅い考えである。根本はスピリットの違いで、積極性と消極的受け身との違いに帰するものであろう。要するに、私は軍人に向いていなかったと悟っている。

しかし、あの生活を全部否定するつもりはない。貴重な体験をさせてもらい、いささか、自身が強靭になったように思う。尤も、その結果はとっくに消えてしまったが、::

総括して言えば、三号生活は二度はご免蒙りたい。従って、クラス会には、同じ苦労をした仲間であるから気楽に参加できるが、同窓会となると肩がこりそうだ。それで参加しないのである。

 

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