迷走する日本・その国民感情

                 K 中 瀬  直 明

 

神戸市須磨区の住宅街で起きた少年Aによる幼児殺害、首切断事件(平成九年)は非道残虐さにおいて類を見ず、全国民を震撼させた。かかる残虐な事件にもかかわらず、少年法を楯に犯人の顔も名前も、親の名前すら分からない。新潮社のフォーカスのみ顔写真を載せたが、販売筋は販売を拒否し返品したという。

法務大臣はフォーカスの顔写真掲載を遺憾とする談話をなし、マスコミもまた挙って少年Aとして報道するのみで、評論家、識者もその責任を社会、教育に転化せんとしている。

それにつけても思い起こすのは、かの浅沼社会党委員長刺殺の事件(昭和三十五年)である。少年山口二矢(十六歳)の写真、名前は勿論父親の職業までも詳細に報道し、当時の世論もまたこれに異議を唱える声は全くなかった。

父親は、偶々自衛官であって事件には関係ないにもかかわらず、道義的に責任を感じて辞表を出し退職したが、一部のマスコミはこれでは生ぬるい、懲戒免職にすべきだと主張した。全く同じ少年法の下においてかくのごとしである。果たして法の下に平等であるとする法治国と言えるであろうか。

当時陸上幕僚長であった杉田一次陸将は、その著書の中に、浅沼委員長刺殺事件について手記を残している。以下、抜粋する。

「当日恒例の部課長会議があり、私もそれに出席していた。副官からそっと紙片が渡され、それには『浅沼委員長が暗殺された』と書かれていた。そして山口晋平一佐は、そのことで既に幕僚長室に来て待っていた。私は会議から抜け出して山口一佐に会った。山口一佐は、浅沼委員長を刺殺した少年が自分の倅であるかどうか、一抹の不安を抱きつつ、『倅は赤尾敏氏の愛国党に入っていたが、その後脱退して支那語の勉強に通いたいというのでテキスト等を買ってやった、親としてやや安心していたところである。しかしこの一カ月は家に寄り付かずにいる』と報告した。私は『この事件は世間に大きなショックを与えよう。この事件は自衛隊とは全く無関係であるが、君は自衛隊の幹部であるから、記者等には息子のことについて説明する程度で、事態が判明するまであまり話さないほうがよい』と指示して帰らせた。後に聞くところによれば、記者たちも山口一佐の極めて冷静な態度に一驚を喫したようであった。一部の新聞では自衛隊教育と事件を関連付けようとしたものもあったが、事件の真相が判明するにつれ、自衛隊を中傷する記事は次第に姿を消していった。

山口二矢少年は、東京少年鑑別所内で歯磨き粉で『七生報国』と書いて自殺した。新聞論調は、事件に関連して自衛隊の教育に鋭く関心が注がれていることは覆うべくもなかった。この間、父親の責任について、山口一佐の辞表提出に止まらず更に処分を要求する論説もあれば、反対に責任を問うに及ばず、辞表を却下すべしと電話で要請してくるものもあった。道義的立場からの退職願いは容れられ、山口一佐は自衛隊を去った。

浅沼氏は一瞬にして刺客の手によって生命を奪われ、遺族は悲嘆に暮れ、片や山口家は前途ある息子を失い、父は自衛隊を去らねばならなくなった。まことに社会の悲劇であり、家庭の悲劇である。自衛隊も山口一佐を失うことは残念であった。これが日本の縮図であり、日本の当面する国内情勢を表現しているものであった。浅沼委員長は、中国を訪問して『米帝国主義は日中共同の敵』と堂々と共同声明を発表し、安保反対闘争を騒乱状態にまで煽動したのも事実であった。ややもすれば正義感の強い青少年の中には、思い余って暴力行為に出るようになることは、歴史の証明しているところである。浅沼事件は、日本の社会が招いた不幸な出来事であった」と。

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ところで、今回の少年Aの父親は、その職場で如何なる報告をなし、その社長は如何なる対応をしたであろうか。マスコミは口をつぐんで語ろうとしないが、是非知りたいところである。少年山口二矢の事件の時、かくも少年法が蹂躙されながら、時の法務大臣は遺憾の談話を発表しなかった。いや発表できなかった。法はあれど都合悪ければ守らないことを良しとし、都合よければ守るを是とする。少年A事件の被害者のプライバシーは守られず、加害者のプライバシーのみ重視する、今日の国民感情は何処に迷走してゆくであろうか。                       (平成九年記)

【平成十二年六月二十日永眠】

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