西洋のこころ と 日本のこころ

                  E 石 川  衛 三

 

一 理想(イデア)主義者 と リアリスト(現実肯定―現在主義

  者) ―近代科学の誕生―

二 西洋文明の光と影 ―キリスト教「正・負」の論理―

三 東洋の英知 ―「無為・知足」・「今ココ(非連続の連続)に

         生きる」― 

@生の論理を求めて

Aイデア主義

B近代的自我への疑問

C「老荘・禅」に聴く

 

     石川衛三君から、右のような目次の長文の寄稿を

戴きましたが、紙面の都合で、「C「老荘・禅」に

聴く」(抄)のみを掲載することにしました。

                      編 集 部

 

 「老荘・禅」に聴く

 

 我々は先ず、万物の存在根拠ないし万物を支配する根本原理を、

老荘の思想にあやかって、「道」ないし、芭蕉の好んだ「造化者」と

名付けよう。「道」とは、形と色を持って、この世に存在する一切の存在を生成し、変化させ、やがて消滅させて行く第一原因、つまり

「造化者の働き」である。造化者は、無窮の時間と無限の空間に亘(わた)って「自生自化」(自ずから生じ、自ずから変化)し、一切万物を一切万物として在らしめる究極的・根源的な原理・理法であり、変化の流れである。それを先ず、「道」ないしは「天」と呼称したいと思う。そしてもっと言うなら、「易経」や「老子」などに代表される、人間のみならず、感覚される形而下の世界(つまり物的世界)に見出される万物を、見えない形而上的次元(「道」)から発する働きの容器とみる考え方によるものである。

 そして、人間のすべての「煩悩と苦悩」は、「形而下の世界・次元」に囚われ、自縛することから生じると考える。とは言っても、それは、形ある世界・形而下の世界を否定するものではない。ただ、それらの世界に固有な「価値ないし規範」に囚われてはいけない、というのだ。そのためには、常に形而上の世界である「真実の世界」に立ち返らねばならぬ。「造化の理法」即ち「道」ないし「天」こそが、真であり、真の世界である。ちなみに、学問の神様、菅原道真の名は、「道ハ真ナリ」に由来すると言われる。

 しかも、その「道」は、あらゆる個物を離れて存在するものではなく、まさに「普遍的な実在」であることに留意しよう。万物、それぞれの個物は、「道」の顕現である。それらは、「道」の働きの容器なのであった。究極的・根源的な真理は、この世に形を持って存在するものの中に、斉(ひと)しく宿っている。つまり、この世に形を持って存在するものは、全て自己自身の中に存在する必然性を持っている「道ハアラザル所ナシ」のだ。真理は、瓦礫(がれき)の中、屎尿(しにょう)の中にも存在するのである。華厳思想の説く「一々の微塵の中に、一切の法界を見る」、いわゆる《事事無碍法界》の世界である。かくて、「道」は、「形をとった形なき実在」と言えようか。そして、その「道」を究めんとする努力・精進が、「武士道・剣道・柔道・弓道・茶道・書道・華道」等々の諸道である。

 かくて、道の真理を体得した「真人または至人」は、「囚われぬ自由自在な生き方」を生き、「無何有(むかう)ノ郷(きょう)ニ遊ブ」(荘子:逍遙遊篇)。「無何有」とは、「何モ有ルコトナシ」つまり、何一つ、〈価値規範的な限定〉の設けられていない所、即ち、「得失」、「大小」、「上下」、「禍福」、「是非」、「賢愚」、「貴賤」、「貧富」、「美醜」等に、その一端を見る「価値・規範」、所詮は「相対的」な、これら一切の「世俗的・人為的」な限定以前の「区別」、つまり、「二分法の論理」を超えた、本来的・根源的に「一つ」である「斉(ひと)しい所」、「万物斉同の哲学」、即ち「道の世界」であり、この世界に遊ぶ人、即ち、この世界に絶えず立ち返って考え得る人、これぞ「真人」ないし「達人」に他ならない。ここで、「遊ぶ」とは、一つの場所に固定されず、自由自在に動きうる、囚われない「こころ」と「生き方」を指す。あらゆることを自由自在に、「創造的」に為し得る境地である。人間は真に自由(=自律性と主体性)である時、はじめて「創造的」であり得る。意識の枢軸たる座標軸なき自在(=住する処無き)の境地とでも言おうか。いささか唐突の感が、無くもないが、ここで「遊ぶ」にちなんで、想い合わされるコトバに、かの「梁塵秘抄」の一節(どうやら、本来は、遊女の唄らしいが)、「遊びをせんとや 生まれけむ 戯れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声聞けば 我が身さへこそ揺(ゆる)がるれ」がある。事のついでに、「何せうぞ、くすんで。一期(いちご)は夢よ。ただ狂へ」(何になろう、真面目くさって、人間の一生なんか夢なんだ。夢中になれ。)(閑吟集)へと行ってしまおうか。この「固定観念から自由な遊びの心(精神)」こそ、「神」ないし「道タオ」、いずれ「大いなるもの」(Something Great)の最大の贈り物(恩寵)たる『自由と創造』へのshort cutであろう。

 「道」は前述のように、物を離れて、別個に存在するものではない。「道」は時空的に制約された現象、即ち「万物」ないし「有」として顕現する、と言える。それは、一切万物を一切万物として在らしめる「自ら成る」働きであり、コトバによって説明することも、知力によって認識することもできぬ。「道」は「自ラ然ル」ものであり、ここで言うオノズカラとは「言知を超えている」の謂(いい)である。この「オノズカラ」という思考は、「神や本体、本質」を原因とし、万物をその結果とする、西洋的な「因果的・知的思考」を拒否し、超越するものであることに着目しておきたい。

 かくて、「わが計らい」にとらわれない、人知の賢(さか)しさや、人為の醜さに歪められない、「真の行為」が可能になる。常識的な「有為の為」ならぬ「無為の為」が、ここに顕現する。「無為」とは、「有為」の否定、つまり、将来に果報を期待せず、「今」という時間から、果報も得てしまおう、というのだ。「今」を最大限に楽しむ、ということでもあり、「不落因果」と呼ばれる。英語のVirtue is its own rewardの傍点部に相当するものと思われる。

 「善行は、この現象の世界では、それ自身、目的であることを要求し得る、唯一の価値である。徳の報いは、徳ソレ自身というではないか。(=徳行がそれ自身の報酬である。)私はこんな平凡な結論に到達したことを恥ずかしいと思うが・・・」(サマセット・モーム)

 ちなみに、この「否定を媒介とする肯定」という、老荘哲学に通底する、独自な論理は、前述の「無用の用」、「声なき声」等々にも既に見た通りである。

 「達人」はかくて、自己の「生」、「人生」が、「自己の与り知らない必然」によって始まり、「自己の与り知らない必然」によって終わることを知っている。この天与の「自己の現在」を自己の現在として、精一杯、逞しく、楽しく、生きていくこと、これが達人の生きる道である。「理念ないし未来」に生きる理想主義者、西洋人に対して「現在」に生きるリアリスト日本人は、人生の常なきを、過ぎ行く、「現在のはかなさ」を知るがゆえに、正にそこに「美と実在」を見出す。滅び行くもの、去り行くもの、のみに我々は、その実在(リアリティ)を発見するのだ。「定めなきこそ、いみじけれ」(徒然草、第二段)、これが日本人の「こころ」であり、哲学である。和歌を、俳句を、そして演歌を口ずさむ日本人は、天性の即興詩人であり、「遊び」ごころ、ないし素質を無しとしない。

 ともあれ、「自己の現在」をかけがえのないものと捉え「全肯定」し、「現在という時・空」を精一杯生きることだ。この「現在」にちなんで、自己に与えられたものが「生」であれば、その生を素直に受け取って、楽しく生き、自己に与えられたものが「死」であれば、一切の執着を忘れて、従容として死に就き、自己を母なる大地・大自然に返上する。一切の存在を支配する「縁起(=因縁生起)の理(ことわり)に順ずるのみ。自分が生まれ、自分が還ってゆく偉大なる「場」、〈母なる大地〉ないし、老子の説く、万物を生み出す母なる「玄牝(げんぴん、深遠なメス)」の陰門(ほと)(老子、第六章)に立ち返ろう。

 かくて、「自分」(=《自》然の《分》身)の究極の立脚点、つまり「自分」の「生き方・ありかた」は、かくて、〈「今」という瞬間に全力投球する「今ココに生きる」精神〉(道元の「而今(にこん)」と「全機現」に負う)、に収斂できようかと思われる。この姿勢は、中世ドイツの神秘思想家エックハルト言うところの「不断に新たなる唯一の《今》のうちに、常に住す」の言葉にも支持されよう。前述の「不落因果」は勿論、かの世阿弥の「住する所なきを、まず花と知るべし」(=停滞と惰性・マンネリズムを排する精神・スピリット)にも相通ずる、深く、重い、噛み締めたい言葉である。ここで、意識的に「一日という時間の独立性」を想うこと、更に言うなら、この「一日」を「《一期一会》の時間」と捉える視点、さらには、「一日=永遠(の時)」と捉え(=「即非の論理」・「絶対矛盾の自己同一」)、且つ、実感する「発想の大転換」こそが、我流ながら、大いなる目覚めないし「悟り」への第一歩であり、岐路であるように想える。よくよく考えてみると、本来、あらゆる瞬間は独立している、と道元禅師は説く。その傍証の一つに「一念三千」も挙げられようが、道元の時間論によれば、時間というものは、過去から現在へ、そして未来へとつながっている、線のようなものではなく、「微分的な瞬間」、前述、道元の「而今(にこん)」が、無限に隣り合わせになっているものと考えられている。ここで「微分的」(=栗田勇氏の表現)という意味は、「隣り合う瞬間が限りなく近づいてゆくように見えて、しかし決してくっつかない」、ということである。

 本題に戻って、「網の目のような因果」は、所詮、すべて看取ることは不可能だから、そんな当てにもならぬ結果を当てにして「今」という時間を殺すな。我慢して時を過ごすのは「時間の殺生だ」、と禅では考えるらしい(玄侑宗久氏による)。もっと言うなら、楽しめないならおやめなさい、ということでもある。つまり、「因果を意識的に無視する、楽しいことをする、というより、することを楽しむ」、という高みに立つのだ。そこに現前する風景は、日ごと、新鮮な一日と世界であろう。毎朝、初心で向き合えることもできよう。かくて先ずは、座右銘として、「因果に落ちず、今を楽しむ」ということを心している昨今である。前出の「日々ニ、ワレ死ス、故ニ我アリ」の心境でもあろうか。先ずは、我流の「悟り」と、自任ないし自己満足している。

 ところで、「東洋の英知―《無為・知足》・《今ココ(=非連続の連続)に生きる》―」と題した「今ココに生きる」は、ひとり、東洋だけのものではないことも、忘れてはなるまいと思う。その一例は、マタイ伝の、次のことば「一日ノ苦労ハ、一日ニテ足レリ」である。明日のことは明日にまかせて、今日一日を悔いなく精一杯生きよ、というのである。(前出の「日々是好日」参照)「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ:6―34)

 ついでながら、我々とは出自を異にしながらも、キリスト教の「聖書」は同時に、周知のごとく、例えば、「心の貧しい人々は幸いである(マタイ福音書:5―3『山上の垂訓』)」を始め、「富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたは、もう慰めを受けている(ルカ福音書:六―二四)」等々、あまた無数の、「かなり過激な」、「逆説的な英知」に満ちた言葉の宝庫でもあることを申し添えたい。東西に屹立(きつりつ)する人間の教師、「キリストと釈迦(老子・荘子をも視界に入れつつ)」は、両者、今なお健在である。

 では、最後に、視点・論点を、グローバル(地球的)・宇宙的規模に転じて、筆者の好む文章を二つほど、ご紹介して擱筆したい。

 『地球といい、その上に暮らしている生物といい、もとは一つの、太陽をはなれて回転していた火の玉であった。時が経過して生物を乗客とする船のようなものになった、と考えれば、もと一つのものから分かれたもの同士であって、詩人が石の声を聞いたといっても驚く必要はない』と、今西錦司氏はいう。その声が、人間の耳で聞くような声でないだけのことである。そして同氏は、ここから、「存在するものの類縁関係」を説きおこすのである。

 次いで、このような視点の延長線上には、当然、「生命体としての宇宙」という視点が眺望できよう。今や、生物ばかりでなく、物体も天体も一つの生命体であり、宇宙そのものが一つの生命体なのだ。『この宇宙は常なる生成の世界であり、純粋の活動力であり、無限の創造力である。そこに宿る《宇宙の根源的意志、あるいは宇宙生命》は、相互に作用する《個体性の世界》を通して、数限りない《天体や物体や生命体》とし表現される。その意味では、天体も物体も生命体も、その「個体」は、《不断に生成流転する大宇宙》を映す「小宇宙」である。』(小林道憲氏―)(括弧類は筆者。)

 

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