幸せを求め、愛に生きる

D 武 藤  雪 下

 

我々人間は極めて未熟な状態で生まれてくる。一人で立ち上がることも、食べ物を口に運ぶこともできない。周りの人々の助けがなければ生きていけないのが人間である。周りの人々との支え合いを可能にするために、人間は進化の過程で「ことば」という文化を授けられた。意思を伝え合い、共有するための高度なコミュニケーション手段の獲得である。

人間はひとりでは生きられない。みんなと一緒に力を合わせ、助け合い、心を通じ合わせるのでなければ、結局は自分が不幸せになるということは、誰でも頭では十分に分かっているはずなのに、現実には助け合おうとするどころか、相手を非難し攻撃し、欠点を暴いて陥れようと企み、自分だけが得を図り、しかも、善人であろうとする姿を多く見かける。

いくつかのことばのやりとりについて考えてみよう。

「ワタシ一所懸命がんばっているから・・・」という言い方をする人が少なくない。こんな風に言い始めてしまうと、「だから、お前は楽ができるんだぞ」と恩を着せ、「有り難く思え!」と感謝を強要する言葉が続いてしまう。そうなれば相手も黙ってはいない。「何を言うの、ワタシだって立派に働いているんだ」と負けずに言い返す。また、「ワタシこんなにがんばっているのに」という言い方をする人もある。こんな風に言い始めてしまうと、後に続く言葉は「キミはその苦労も知らずに怠けてばかりじゃないか」と相手を非難する形で終わるしかない。そうなれば、相手も「冗談じゃないよ、たいした稼ぎもないくせに。ワタシがやりくりどれだけ苦労しているか考えたことあるの?」とやり返すだろう。売り言葉に買い言葉であるが、どうしてそうなるのだろうか。

それは、この言い方には自分だけが良いところ、うまい所を取ろうとしているのが見え見えだからである。また、相手に悪い所を押し付ける言い方になっているからである。良い所を独り占めしようとすれば相手も奪い取ろうとする。また悪い所を押し付けようとすれば、押し戻そうとする。こうして言葉尻をとらえたり、揚げ足を取ったり、屁理屈の言い合いになってしまう。そこには気持ちの通じ合う余地など全くない。

身勝手で利己的なのが人間の相(すがた)かも知れないが、協調と平和を望むなら、言葉の出だしを次のようにしてみたらどうだろうか。

「アナタしっかりやってくださるから」と、良いところ、長所を相手につけて言い始めれば「お陰で私は自分の仕事に専念できます」となり、「有り難う」が自然に出てくるし、そうすれば相手も「いいえ、いいえ、アナタが良くしてくださるので」と良いところを譲り、「安心して働けます、有り難うございます」の感謝の言葉も自然に聞かれるものである。

また、「ワタシの注意が足りなかったばかりに」と欠点や悪い所を自分の方に取って言い始めれば「キミに迷惑かけてしまって」となり、「すまないことをしてしまった」と率直に詫びることができるだろう。そうすれば相手も「とんでもない、ワタシがうっかりしていたものですから」と、こちらも欠点を自分の方に取り、言い争いになどなりようもない。

言葉の使い方は、日常生活においてたいへん重要な役割を持っている。特に出だしが大切である。ほめればほめられ、責めれば責められる。赦せば赦され、恨めば恨まれる、与えればお返しがあり、奪えば仕返しがある。これが言葉の働きであり、心の法則である。親切にしてほしいなら、かねがね親切にしておくことだ。憎まれたくないなら、人の恨みを買うようなことはしないことだ。

このような会話においては、客観的に見て、どちらが正しいかは問題ではない。相手の気持ちや心情をどれだけ汲み取り、受け止めてやっているかが大事である。これは甘やかしとは違う。お世辞でもない。人間は過ちや失敗をしてしまったり、怠けてしまったときなど、いちばん気にしているのは本人自身である。顔には見せず、却って反対の態度を取るとしても、そのとき、胸のうちを受け止めてくれる人がいてくれれば、心の理解者を得て安心し、勇気を持って自分の欠点や弱点を率直に直視し、それに立ち向かうことができるものである。

相手の間違いを指摘し、欠点を非難するのが、その人を変えさせる唯一の方法ではない。自己弁護に走り、些細なことでむきになり、逆恨みされるのがオチである。むしろ、不完全なのが人間であることを率直に受け止めて受容してくれる人に出会ったとき、人は自己改造ができるのである。

未熟に生まれついた人間は本来不完全なものであり、多くの欠点や弱点を持っている。愚痴をこぼし、言い訳をし、弱みを人に知られたくない、人の幸せは羨ましいし妬みたくもなる。しかし、それも結局は、人間のもっとより良い人生を生きたいという願望がそうさせるのであろう。幸せを求める気持ちが極めて強いことを示すものである。

幸せ』を求めるなら、人間は個人としては極めて弱く不完全で、みんなと支え合い、助け合わねば生きられないものだということ、また、能力や性格も考え方もそれぞれ異なっているという人間の原点に立ち返り、それを自覚し、それに逆らわない生き方を身につける必要がある。

不完全であることが認識されれば、むやみに高望みをして劣等感や絶望感に陥ることもあるまい。弱みを見せまいと突っ張るほどのこともなく、見栄を張る必要もない。ありのままの自分を忠実に見つめる勇気も湧いてくる。

支え合わねば生きられないという認識ができれば、他人の弱点を暴いたり、陥れようとすることが自分自身を不幸せにすることになる愚かさに気付くだろう。そして、みんなと心を通じ合わせて生きようとする『愛の心』を感得することができるであろう。

人生それぞれに個性があるという認識ができれば、己の非力を嘆き、人生を妬んだりすることの無意味さに気付き、分に応じて社会やみんなのために役立つ生き方を見出し、充実した人生を送ることができるであろう。

愛』とは、人を生かし、物を生かし、そして自分を生かすことである。それぞれが互いにその持ち味や機能を発揮することができるように助け合うことである。この認識に達することができたとき、人間は真の幸せを得ることができるであろう。

 

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