野口英世博士のことども

                 D 佐 藤  守 雄            

 

レントゲン博士の名は主に医療に関して不滅ですが、常人不到の努力と業績を挙げながら、その方面の学術書に何の記載もない不遇の人、それが野口英世です。この小論に家庭人としてのことも追記しましたので、「ことども」としました。

およそ、会津に旅する人が必ずと言ってよい位立ち寄る所として、翁島の野口英世の生家があります。今にも腰の曲がった老婆が白髪を振り乱して、転(まろ)び出て来そうな陋屋がそれです。

貧農に生まれ、不具にもめげず、孤軍奮闘し、遂に大成した大学者、立志伝中の人・野口英世――これが少年時代の私たちの「偶像」の博士でした。長じて大学の医学部に学ぶに及んで、如何なる細菌学の成書にも、博士の名が載っていないことに驚かされました。

博士の生涯の恩人に、アメリカのフレキスナー教授がおられます。教授が嘗て北里研究所を訪問された時に、野口は通訳を務めました。只これだけの縁に縋って、野口は一九〇〇年に片道切符だけを工面して、ペンシルバニア大学に突然教授を訪ねたのです。止むを得ず教授はポケットマネーで野口を助手にし、蛇毒研究のテーマを与えてくれました。これが野口が大研究者になる切っ掛けであり、人と人との出会いの大切なことを感じさせます。

彼の優れた数々の研究業績の中で特筆すべきものは、麻痺性梅毒(所謂脳梅毒)患者の脳に鏡検により、梅毒スピロヘータを発見したことで、これ一つを取ってみてもノーベル賞に値すると言われます。事実この発見に基づいて、後に梅毒のマラリア熱療法を考案したワグネルは、ノーベル賞を貰っています。このことは兎角欧米人中心の考え方を否定し去ることができません。

当時の野口の研究の猛烈さは、本人は「人間は体のことを考えるようになったら終わりだ。自分を労(いたわ)るようになったら、もうエネルギーは失くなったのだ」と言い、周囲のアメリカ人は「一体日本人は何時眠るのだ」と感嘆したと言われます。

それでは、これ程高名な学者がどうして医学書に出て来ないのでしょう。貧農の生まれだからでしょうか。婚約不履行の故でしょうか。はたまた我が国における正規の学歴がなかったからでしょうか。確かにこれらのことは、野口の不評の原因の一部ではあっても、全部ではない筈です。名誉欲の強い野口が晩年に功を焦って発表した黄熱病の病原体が、実はワイル病のそれであった事が、学問上の大失点になっているのです。

黄熱病は後にビールスによって起こる事が分かります。従って野口が、黄熱病の予防接種として自分に行ったものが、全く無効であり、そのため黄熱病の研究中に、野口自身この病に罹患し、遥か彼方西アフリカのアクラで亡くなります。まさに巨星墜つ――否、ギラギラとエネルギッシュに輝く太陽が沈んだ(遠い落日)のであります。当時の細菌学者たちのビールスに関する認識は、はしなくも、野口の死の枕の最後の言葉の「何が何だか分からない」の通りだったのです。野口が如何に鏡検の達人であっても、当時の顕微鏡で微細なビールスを見付け出すことは不可能でありました。この意味において、野口が研究の後半にチャレンジしたのが、ビールス性疾患という難物であり、病原体の検索が細菌からビールスに向かう過渡期に巡り合わせた悲劇の学者とも言えるでしょう。

野口が遠い異国で死亡した翌年の一九二九年に恩師フレキスナー教授は次の如く追悼しています。「野口に三つの天与の才あり。第一に明晰な頭脳、第二に素晴らしく器用な手先、第三に比類なき勤勉」と。絶賛と言うべきでしょう。

ところで、野口夫妻には夫婦仲が悪かったとか、メアリー夫人は愚妻で夫を放ったらかして置いたとか、悪評がありますが本当だったのでしょうか。筆者は浅倉稔生医師の「フィラデルフィアの野口英世」を読んで感銘を受けました。当時のフィラデルフィアには日本人の留学生が多く、野口は多くの友人を作りました。野口は人に奢るのが大好きで、レストランに人を連れて行って、「メニューの品物をみんな持ってきてくれ」と滅茶苦茶な注文をして、食べ切れないほどの御馳走を人に振る舞ったり、一寸大金が入れば発作的に、洋服や家具を買い込んで浪費したそうです(元祖衝動買い)。スッテンテンになると、次の給料日までパンと水で我慢します。米国社会は大学者に研究費は沢山出しても、生活費はソコソコだそうです。経済観念もなく、研究のため突然外国に出掛けて、何日も帰って来ないような野口の不規則な生活です。

たしかにメアリー夫人は気が利かなかったかもしれません。しかし、万事大まかで口出しせず、服を買ってくれとか、何処かへ連れて行ってくれとか言うでなし、嫌ならさっさと寝てしまう―-こういう人でなかったら、猛烈人間の野口と連れ添って行くことは不可能だったでしょう。

野口の方も結構感謝していたようで、出先から必ず手紙や電報を夫人に送っています。永遠の別れとなったアフリカからも、せっせと便りを書いています。野口の死を知った時、メアリーは声をあげて泣いて、「なぜ私の夫をアフリカにやったのか」と、今まで余り口を交わしたことのない、ロックフェラー研究所員たちを詰りました。

やがて届いた野口の遺品の中には、メアリーのために野口が買っておいたネックレスや指輪が入っていたのでした。

 

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