無  題

                 C 橋 本  榮 一

             

「敗軍の将は兵を語らず」と言うが、先輩は往時の戦訓を語ろうとしない。陸さんの将校生徒は学校生活を二度と回顧しないまでに、徹底的に叩けという指針だったらしいが、私達はそうでもなかった。恩賜の短剣組が母校の教官に着任するのが、最高の栄誉とされた。世上の辛苦を知らぬ清浄無垢な少年を、批判を許さず半強制的に躾教育する世界は、今日到底想像もできない。私にはそんな思い出よりは、寧ろ、遠い昔の事ゆえに美化していると言えるが、敢えて拒否する積もりはない。

だが、三七期の全国大会の通知を受けると、何も知らぬ妻は気も漫ろとなり、私を急き立てる。喜々として東京のホテルまで同伴上京して、会の終わるまでじっと一人待っている。それを見ると、思わずしおらしい感じがする。嘗て、四分隊の同期会で、立山に夫婦同伴で参加して室堂のホテルで一泊を共にした縁で、生まれながら人見知りする妻も、一面識のない奥さん方と旧知のように親しんでいた。

十カ月の海軍生活では、何を習ったかは忘却したが、同僚からは雑学の橋本と言われている。簿記でも法律でも、今の高校二年生級の知識しか教えられなかったのだが、不思議なことに、どんな仕事にも親しみが持てて、忠実に真面目に取り組み、いろいろ他人のお世話をしてきた。貸借対照表が読めなくても、次から次へと自分のやるべき課題が眼の前に現れ、やりとげる自信がついた。英国に二度ばかり出かけたが、英国海軍では主計科が兵科以上に重視されるので誇りに思った。おかげで、齢七十六歳を過ぎても、無聊を嘆くこともなく元気に毎日を送っている。

巡検用意の時に、随分殴られたが、軍人としての躾教育の一端であれば、意義のある当然のことと思えた。それよりも、私の失態で同期生が連帯責任で猛省を受けたのには、慙愧に堪えない。幼い頃から、乳母育ちのボッチャンで、何ごとにも皆に迷惑をかけっぱなしだった。ドン亀で実力のない私には仕方のないことだけれども、私なりに努力したものだ。それは蟷螂の斧と言われるけれども、自ら進んで有志稽古に精を出して、色んな事に手を染めて努力した。この躾教育のお蔭で、何にでも首を突っ込む根性が形成され、今でも多情多恨と言われている。それが私の人生であり、悔いることがなければ、あの世まで背負わねばなるまい。実力がないだけに、他人の上に立つ立場に追いやられると、全く切ない思いをする。

私のベッドの左右に寝ていた両君も既に他界して、次は自分かと思う。両君とも職種が異なり、夫々の悩みを聞く毎に、北陸の田舎出の私には、考えさせられたり、事新しい自覚の体験を余儀なくされた。分隊の誰一人とっても、彼等なりに長所があり、刺激を与えてくれて開眼させてくれる事が多かった。そういう意味で、分隊会は年一回の思い出の場でなく、新しい人生の第一歩を踏み出す試金石とも言えた。海経の一番の欠点は、校長に何度も「天下の英才」と煽てられて自信過剰にされたことだ。たしかに、隊監事は、生徒の品格を下落させるという一言で、防空壕作業も最小限に止めたり、松根油作戦も予定表の夏期休暇まで延期させてくれたりした。卒業しても、乗る海防艦も失った現実にも拘らず、空襲で焼け野原の巷に彷徨させる危機を救って、大量生徒を募集した事も、大変な偉業と言える。

どの教官も偉かった。戦後暫くして亡くなった分隊監事も、あの教官棟の二階の研究室の窓に夜遅くまで燈火がもれ、航空食の研究をされていた事を耳にして感激した。二号の時も、分隊監事から孫子の講義を受けて別世界に瞠目したが、手に孫子の本を得たものの未だに読み切れない。空母退艦時、主計科士官は御真影を軍艦旗に包み腹に巻いて退艦するのが常とされたが、輪転機で何枚も印刷可能なものよりも、何故に戦闘記録を持ち帰り、その後の資料にしなかったかと自らを恥じて、その時の勲功たる金鵄勲章を一度も佩用せず、己の意地を通した教官の信念にも感動した。どの教官とも、親しく言葉を交わした事がなく、教官の後ろ姿を通して薫陶を受けたものだ。

戦後、高校に復学した時、同級生は戦時中の学徒動員で殆ど学習していなかった。英語などは、三年間に満足な授業を受けただろうか。彼我の学力の差は格段だった。現役の彼等は「負けまい」と血眼で勉強したが、私は、天下の英才と自惚れ鼻歌まじりに適当に受講したものだ。しかし、半年も経つと、逆に余りにも大きな差がついていた。敵を知り己を知れば、百戦危うからずと訓示され、教官に教えを請いながらも、何時までも自惚れの世界に拘泥した私の半生も寂しいものと言える。先人との邂逅を大切にして、先人の意見を喜ぶべきだと知ったのは、随分遅い頃だった事が嘆かわしい。

 

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