雑  感

A 阿 部  源次郎

 

一九七一年に、海外赴任先で先輩から「5 years diary」を貰ったのが、今日まで三十五年間日記を認める端緒になった。今では、この長期連用日記を愛用する人が増えてきたようだ。同じ日付けの数年分の記事が纏めて一覧できるので、記憶を蘇らせるのには最適だ。しかし、私の場合は、これ以前のことは殆ど記録として残しておらず、ましてや六十年前の経理学校時代のことは、記録も一切破棄してしまったし、記憶も辛うじて断片的にしか残っていない。ただ、この十カ月という短い生徒生活の中で、今だに脳裏に焼きついているのは、三号時代の鉄拳制裁のことなので、これについて触れたいということと、併せて戦後五十年にわたり楽しんできたゴルフについての雑文を認めたいと思う。

鉄拳制裁

あれは、入校式が終わった後の最初の分隊の集まりの時だったのか、或いは最初の巡検のあとの「三号起きろ」の時だったのか。コの字形に整列して最高潮に緊張のさなか、「これから海軍魂を叩きこんでやる」と言われても、昨日までの中学生にそれが何を意味するのか理解できないうちに、端にいた三号がいきなりポカリと鉄拳を喰らった。この張り詰めた緊張の中、こいつはどんなヘマをしたのかと訝しがる暇もなく、あっという間に一号生徒が私の前に立ち、例の「半歩開け、眼鏡をはずせ、奥歯をかみ締めろ」とどなって、強烈なパンチを喰らってしまった。緊張の余り、痛いという感じはそれほどなかったが、これが海軍魂というものかというちょっと醒めたような思いだったことは記憶にあるが、そのあとのことは記憶に残っていない。それまで、両親はもとより、学校の先生からも鉄拳制裁を喰らったことはなく、いわば生まれて初めて味わった苦い拳骨の味だった。その後、ことある毎にこの鉄拳制裁を受け、はじめは一生懸命数えていたが、その内馬鹿馬鹿しくなって止めてしまった。

 それから暫く経ったある雨の日に、廊下で靴を磨いていたら、一号生徒に見つかり、そのときはお説教だけで放免されやれやれと思っていたところ、その晩、例によって巡検後に「三号起きろ」の号令。「今日この中に廊下で靴を磨いていた奴がおる、一歩前に出ろ」と。一瞬血の気が失せたが、覚悟を決めて一歩前に出たところ、一号全員から鉄拳の嵐で、ぶっ倒れはしなかったものの、それから三日間程は、自分がどんな理由で殴られたのか記憶が完全に喪失してしまい、元通りに蘇ったのは何日経ってからだったろうか。今で言えば、「一過性脳虚血意識障害」とでも診断されたかも知れず、勿論傷害罪のカテゴリーであろう。ただこの時は、連帯責任ということで、三号全員が制裁を受けなかったことが、せめてもの幸いだと思っている。

 鉄拳制裁の評価については、賛否両論があろう。若年の教育に厳 しさが求められるのは論を待たない。小中学校でも怖い先生(必ずしも殴る先生ではない)ほど、鍛えられ、為になったと言う実感があり、それが後日懐かしさや感謝の念へと繋がっているのは事実である。しかし、私個人の経験では、三号時代に受けた鉄拳制裁が果たして人格形成に役立ったのか、戦争末期のあの時代の精神高揚にどれだけ貢献したのかと問われれば、遺憾ながら否定的な答えしか出てこない。一号生徒の中でも、ためらいがちに一発だけで、これぞ教訓の一発と感じさせた人もいる反面、殴ることに興奮を覚えるのか、当時は病的とも思えるような殴り方をした人もあり、そこに殴る側の人間性が映し出されていると思ったものだが、若しかして一号内部で、殴り役、憎まれ役を決めていたのか、我々には知る由もない。

有為な青年が無駄死に追いやられ、国土が焦土と化すさなか、我々は十カ月の間、いわば隔離され、恵まれた教育訓練を受ける環境に置かれていたのだという幸せを噛み締めれば、ゲンコツの痛さなど大したことではないという論もあろう。

 戦後、友人に、「何発殴られたか数知れず、私も何れは殴りかえしたいと思っていたら終戦でチャンスを失ってしまった」と冗談で話すことがあるが、内心は、実際に殴る側にならずに戦争が終わったことを幸いと思っている。

ゴルフ談義

一九五五年にアメリカヘ赴任したときに初めてゴルフクラブを握ったので、今年で丁度半世紀になる。女房より長い付き合いと言いたいところだが、結婚したのはその前年だ。戦後は、卓球、テニス、海釣り、園芸、囲碁など広げてきたが、勿論ゴルフが一番長い付き合いである。アメリカヘ赴任するまでは、テニスに熱中し、毎週末上司(後の社長)の練習相手をして励んだものだが、帰国後はゴルフ一辺倒でテニスには目もくれなかったので、廊下でこの上司とすれ違うときには、なんとなく睨まれているようで肩身の狭い思いをしたものだ。

 現在ゴルフより時間を割いているのは囲碁であるが、まだ入門コースから始めてやっと十年なのでザル碁の域を出ず、三七碁会ではいつもどん尻だ。囲碁では、始めた年齢が若ければ若いほど、上達が早いというのが定説で、私の場合は一〇〇%この説を裏書しているが、ゴルフでも似たようなことが言われる。普通始めた年齢の半分までのハンディキャップにしかなれないと言われるが、真偽の程は定かでない。ただ私の場合は、二十八歳で筆下しし、生涯のベストのオフィシャル・ハンディキャップが十四なので、偶然にもこの説を証明したことになる。五十年もやってこの程度だから、所謂アベレージゴルファーだが、回数は、海外勤務中の十年余と、リタイア後の十年余に集中して、その間の現役中は、いわゆる月一ゴルフに毛の生えた程度だから、うまくなる筈がない。私の独断と偏見で

は、アベレージゴルファーが上達するかどうかは、一にかかって、プレー回数の多寡によるということだ。  

「ゴルフ談義」をするような腕前ではないが、長いゴルフ生活で記憶に残ることは数多くある。

 ゴルフを始めたころ、ニューヨークで、雪の降る中、カラーボールを使ってプレーしたことがある。当時、こんな天候の中でもゴルフをやっているのは日本人だけだったが、如何にカラーボールといえども、いっぺんに雪だるまになって見失ってしまう。後年日本でも一時カラーボールが流行ったことがあったが、五十年前に既にカラーボールが存在していたのは、振り返ってみると驚きだ。

 一九七三年に、田中角栄元首相がニュージーランドを訪問した際、当時日本人駐在員ゴルフ部会長として、「角栄杯」の寄贈に与かったのは嬉しい思い出だ。後日優勝者が集まってそのカップの取り切り戦を行った際、残念ながら惜敗したが、その後角栄氏は失脚したので、あんなカップは価値がないと強がりを言ってみたが、内心はまたとないチャンスを逸して残念至極だった。

 ゴルフを始めて以来、スコアは勿論、同伴プレーヤーの名前なども克明に記録してきたが、三十数年前に、ある経済事件に連座して部下が逮捕されたとき、身辺の危険を感じて、夜半、この記録を含め一切破棄してしまったので、ゴルフを始めて十数年の記録が全く残っていないことになり、これは今でも非常に残念に思っている。

 会社の先輩で、エージシュートを生涯八十三回達成と言う偉業を成し遂げた人がおり、当方はホールインワンにもエージシュートにも生涯縁のないアベレージゴルファーだが、この先輩を目標に、謂わばモチベーションとしてせっせと励み、一歩でも近づこうと努力していたときが、最も充実したゴルフ人生だったと言えよう。

 よくゴルフは歩くので、年とってからの健康維持に最適だと言う人がいるが、一ラウンドすると、一万五千から二万歩というところ、乗用カートを使っても一万歩は超えるので、確かにトータルの歩行距離としてはたっぷりだ。しかし、実際問題は、精々二〜三分に一回は立ち止まってボールを打つことになるので、運動量としては、非常にこま切れの断続ということになり、果たしてどれほどの運動効果があるのか疑問だが、とにかくワンラウンドすれば、適度な疲れとともに、気分が爽快になるのは事実だ。だからと言って、ゴルフは、健康のためと、同伴者その他との親睦を深めるのが唯一の目的で、スコアにこだわるのは愚の骨頂だと言う人がいるが、私にとってゴルフで一番楽しいことは、矢張り一打でもナイスショットを放つこと、ひとつでも良いスコアを出すことにある。つまりこの年になっても、少しでもうまくなりたいというのが、ゴルフに励むモチベーションになっている。三七会ゴルフに参加して十年近くになるが、勿論親睦は大切だが、一打でも良いスコアを出したいという気持ちは、今後も持ち続けたいと思っている。少なくともあと十年は、フェアウェイを歩いていきたい。

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