思い出すまま

@ 木 村  一 郎

 

この度、文集出版のことを聞き、大分前から温めていた事を文章にすべく作業を始めました。一昨年春ごろまでにその筋書きができ、推敲を重ねておりましたが、その頃から気が緩んだのか、体調不良になり、根気がなくなって、作業が頓挫しておりました。また、これと平行して失明前から着手していた、佐賀武雄領主後藤茂義氏が長崎から買い入れた「蘭書の検討」(この研究を初めに手掛けたのは有馬成甫氏です。同氏は明治十七年生まれ、海軍兵学校卒、昭和五年軍縮のため海軍大佐で退役し、大学に再入学後歴史学者になった方です。また科学史の立場から小生の従兄弟が検討し、免疫学の観点から小生が取り掛かりました。しかし、昨年京大のグループにやられてしまいました。)に関する研究も出来なくなりました。医者からは特別悪化した様子がないと言われたことでしたが、その後低温火傷をし、入院して検査をうけましたら、貧血その他の異常が判り、治療に専念しなくてはならなくなりました。それで、見兼ねた水谷、岩田両編集委員から、「かつて一分隊会で小生が話し、中村誠一氏が記録した文章を整理しては」とのお勧めがありました。そこで小生は、三氏に厚く感謝しつつお受けすることにしました。なお、この文章の中で当時の雰囲気を出すために、登場人物の敬称は、君、氏やかつての陸軍が多用した殿、の代わりに「生徒」を使っています。

一、平成四年十一月六日 第一分隊会において

三号木村一郎です。久し振りに皆さんにお会いできて懐かしく思

っております。ただ皆さんから見えても私からは見えないのが非常に残念で、今は皆さんの生徒時代の風貌を目の前に思い浮かべながらお話しているので、現状と少しピントが外れるかも知れませんが

それはご容赦頂きたいと思います.経理学校に入りましたときは視力が二・〇を突き抜けて二・五近くあったので、目は極めて良かったはずですが、今は一番悪いという状態です。実は入学試験の時は目が悪くなければ駄目だと思い込んでいたので、衛生兵曹があのカチャカチャと変える視力測定機の文字を適当に読んでいたら、〇・五が読めないかと思うと一・〇が読めているということで、どうもおかしいと首を傾げながら、まあ〇・八位にしておくか、と書き込んでいたようです.それからまた、海軍には案外呑気なところがあったようで、私の身長を一〇センチメートル位間違っていたらしいんですね。私そんなに小さくなかったのですが、三十三名中十八番目にランクされ、支給された服、靴下(これは伸び縮みするので良いとして)、シャツ等全部つんつるてんで短く、最後は靴が小さくてあまり押し付けたせいか、礼装靴で往復した乗艦実習では靴ずれから蜂窩織炎を起こし、跛行しながら脱靴列外の格好悪い姿で帰ってきたことを覚えています。

私は、不思議なんですが、総員起こし、巡検用意等が速かったのですが、後になって考えると、それはどうも中学時代の生活に原因があったみたいです。朝寝坊だった私は七時半の汽車に乗るのに七時に起きて朝飯もそこそこに、その日の教科書を揃え、前の日に脱ぎっ放しにしてあったゲートルを足に巻きつけ、歩いて一〇分程の駅まで汽車と競走しながら走っていました。時には駅長さんが時計を見ながら手を上げる、火夫が二掬い程石炭を投入する、機関士は頭上の鉄棒を引いてポーと汽笛を鳴らし蒸気を送る、その段階では、まだ私は前方三〇メートルを機関車に向かって走っているわけです。それで機関士もゆっくり蒸気を送ると、それがポポポと漏れて動輪が空回りして汽車が発車できず、その隙に飛び乗る、というようなこともありました。こういう生活を五年間していたので、脱いだり着たりは極めて速かったのでしょう。

 父を早く亡くした私は、後を継いで医者になる積もりだったし、田舎の中学の同級生より体力が見劣りしていたので、まさか経理学校に入れるとは思わず、軍隊のことは何も知りませんでした。合格通知を貰ったときは、これで医者への道は断念と思ったのですが、人生とは不思議なもので、結果的には、これがそれへの最短距離になったとは。しかも、あの戦乱の中で学問の学び方を一流の先生方から教えてもらえたのは、非常に大きな収穫でした。しかし、恐らくあのままでは、敵を一人もやっつけない内にこちらがやられたであろうと思うにつけ、戦後命の大切さをじわじわと感じ、医学の道に入ったときは、自分の過失で患者を殺してはならぬと考え慄然としたので、臨床をやめ、基礎(免疫学)を選んで現在に至った次第です。それで幹事の岩田生徒から紹介ありましたように、この三月東邦大学医学部免疫学教室を定年退職しました。公私にわたる皆様のご支援を厚くお礼申し上げます。

現在は第一線を走るわけにいきませんので、医学史(免疫学の歴史)みたいなことを一応調べております。そうすると面白いことが判りました。というのは三五期の渋江生徒が、調査中の中村涼庵(初めて日本で種痘に成功した蘭方医)の本家で、敏達天皇、橘諸兄の嫡流であり嘉禎三年(一二三七)に永島庄の地頭になった人の後裔であるということが同期諸隈生徒の示唆で判りました。いずれご先祖の城等の写真をご覧に入れようと思っています。最後にもう一つトピックを提供します、今、海軍経理学校の敷地は東京水産大学(現海洋大学)になっていますが、ご研究のため今上天皇が皇太子の時から何回かお忍びでご行幸になっています。これが戦前なら大変だったでしょう。

二、平成五年十一月五日 第一分隊会において

 本日、午前、九州から寝台特急「さくら」で帰京しました。運悪く四五〇名の女子中学生の修学旅行とかち合って、女三人寄れば姦しいというのにその一五〇倍?だから堪らない。一晩中ピーチク、パーチク、ワーワー、ギャーギャーと騒々しく眠れなかった上、弁当も売り切れて食事止め二回を食らい、「さくら」で怒りながらやっと帰り着きました。それに夕方からこの会に出席で、今日は本当に「サクラとイカリ」に縁が深い日です。

 佐賀では三五期諸隈生徒が二回もご来宅下さり、トルコ、イスタンブールでの世界窯業会議と有田への次回大会誘致等の話を聞かせて頂きました。また、昨年の長崎総会にご出席の方は覚えておられると思いますが、有田にポーセリンパーク建設のため青木海運から出張しておられた三九期織壁生徒が工事完了のため帰京されるので、来る十一月八日に諸隈、三六期小松、三八期古賀等の各生徒が集まり送別会を開くとのことでした。もう一つ、原生徒のお宅にお電話してみたところ、あいにくご不在で、奥様、お嬢様のお話ではお変わりないとのことでした。

 先程の田村生徒のお話でいろんなことを思い出しました。即ち、入校最初の夜、一号生徒の号令一下、二号生徒が我々に巡検用意を見学させて下さいました。その速いこと、バタバタとチェストを開く音がしたかと思うと、全員が寝巻姿に変わり元気良く姓名申告が終わっているという有様で、まるで地震か雷に打たれたような感じでした。新入生がこの域に達するには血の滲むような練習を必要としますが、そのノウハウを懇切丁寧に教えて指導下さったのは田村生徒を中心とする二号生徒でした。また、私達が二号になる頃その心得と要領を教えて下さったのも田村生徒でした。さっきの話では、これは同生徒の貴重な戦訓に基づくアドバイスだったようで、五十年振りに成る程と感じ入った次第です。遅ればせながらこの席を借りて厚くお礼申し上げます。終戦のとき、最後の週番生徒として活躍しておられたのも田村生徒でした。

 さらに、終戦で思い出すことは、八月十七日夜だったと思いますが、二号になってから分隊を異にしていた鎌田生徒と巡検について回っていたとき、機密書類焼却の残り火がまだポッポッと炎を上げていたので、火事になってはとの配慮であったのでしょう、当直監事から総員整列、ポンプを出せとの命令が下りました。我々は何のことか分からずポカンとしていたら、皆一台づつポンプを持っているだろう、放水用意!放水始め! の号令がかかりました。しかし、残念ながら巡検前にタンクを空にして来ていたので放水不能、バケツに水を汲んできたのを思い出します。

 以上のように、海軍では他の社会で経験できない厳しいがウイットに満ちた生活をさせてもらい、五十年たった今でも、当時と変わらぬ気持ちで皆さんとお付き合い願えるのも有り難いことです。

三、平成七年十一月二日 第一分隊会において

 本年は第二次世界大戦終結五十年に当たったせいか、原爆に関する話題が豊富でした。一般に、その残虐性についての認識が薄い者ほどそれの使用に肯定的のようですが、戦時中に育ち、原爆投下直後の惨状を見ている者の一人として、従来とは少し違った視点も含んだ原爆反対論を述べます。

 中、仏両国の原爆実験への抗議に対し、「自国領土内で安全に行っている実験を反対するのは内政干渉だ」との開き直りに、ならば「自国の首都地下でやってみろ」というのは感情論としても、「我々は原爆を遅れて開発し始めたので自衛のため必要な最小限度の追加実験を遠慮しながらやっている」との説明は、「日本は、帝国主義時代の末期に大陸その他の地域に自衛のため遠慮しながら必要最低限の進出を試みたので、それを認めよ」と言っているのに等しい。冷戦態勢が崩壊した現在、限られた核保有国のどの国が、全世界の非難と報復を覚悟して、敢えて中、仏両国へ核攻撃を加えようと言うのであろうか、ましてや特定の地域の世論が気にくわぬと、核の運搬手段となる実験ミサイルを近くに打ち込んで見せたりしたのでは、その国の原爆が自衛のためだとの主張も疑わしく、衣の下に鎧が見え隠れしている.

戦後、米トルーマン大統領は、大戦を早期に終結させるには原爆投下は必要であったとし、それによって生じた非戦闘員を高率に含む数十万の日本人の犠牲は、投下せず戦争が長引いたため生ずる米兵約二十万と日本人多数の戦死を防ぐには已むを得なかったという趣旨の主張をしている。しかし、両軍の死者の間には、この日本人が死んだのでこの米兵が助かったというような正確な因果関係は実証できない。しかも、当時の日本にはすでに戦力は無く、ソ連、スイス等を仲介として停戦交渉の打診もしていたから、崩壊は時間の間題だったし、米軍の本土進攻までもったとしても、そこで一泡吹かせてから和平に持ち込もうという少数の戦争指導者の思惑があったにしろ、それの実現は不可能だったろうし、山野に自生する竹が頼りのゲリラ戦など成立すべくもなかったから、米兵の戦死はもっと少ないと推定でき、従って、この時点での原爆投下の必然性は低かったと思われる。連合国内での主導権争い、莫大な費用と労力を注ぎ込んで作った原爆を使わないことの責任回避、人種的偏見で強められた戦争による狂気、直前に就任した大統領のこの兵器に対する無知等(アイゼンハワーは反対であった)が、投下の要因になったのではなかろうか。

それから五十年、ようやく芽生えた投下に対する反省とその歴史的意義を、冷静に考え直そうとする動きの一環として計画されたスミソニアン博物館での資料展示も、戦争中のマインドコントロールから抜け切れていない米退役軍人の猛烈な反対で潰されたのは残念であった。しかも、退役軍人のメンタリティーは、戦前の日本在郷軍人のそれと共通と思えてならない。その後、館長も辞任に追い込まれたが、これは将にアメリカ版天皇機関説である。

このように追い詰めていくと、アメリカ人は必ず日本の真珠湾攻撃に対する報復だと言うが、日本の宣戦布告の通告が遅れたのは残念だったが、当のアメリカでも宣戦布告なしで始めた戦争も沢山あるし、最後通告同然のハルノートを突き付けて、一触即発の事態を招きながら、ここまでは来るまいと油断していたのは自分の責任でもある。報復と言うのなら、何故攻撃を呉、佐世保の軍港ではなく、すぐ近くの広島、長崎に指向したのだろうか。日本はホノルルを攻撃していない。いずれにしろ、米国は原爆投下というパンドラの箱を開いて、その責めを負わされてしまったが、その米国からもらった玉手箱(憲法)から出た戦争放棄の煙は日本を繁栄に導き、結果として高齢化社会を招いたとは歴史の皮肉である。   

四、平成十年十一月五日、第一分隊会において。

この一日まで九州にいて戻って参りました。三五期の諸隈生徒がちょっと腕の手術で昔の海軍病院に入院されたので、「やっと海軍病院に入れましたね」と見舞ってきました。もう順調に回復されて心配ありません。

それから、帰りの道々考えたのですが、海軍経理学校には、旧朝鮮からの方は多くおられましたが、台湾生まれはどうもいなかったように思うのです。私は台湾高雄生まれで、国内最南端の生まれということになるわけです。二号の時は一八分隊で、二段ベッドの私の下にいたのは樺太生まれの唯野君でした。ですから最北端と最南端生まれが上下に寝ていたことになります。

 また、帰郷の折に、駆逐艦「雪風」の軍医長で沖縄特攻に行った仏坂医師から、鬼内仙次著「島の墓標―私の戦艦大和」(創元社発行・生き残りの乗艦者や関係者からの聞き取りを纏めたものです)を教えてもらい、テープに朗読したものを今年の四月六〜七日にかけて大和特攻の時間に合わせて聴きました。それで思い出したのですが、今、大和として有名なのは戦艦「大和」ですね。これは大和と漢字で書きます。それから宇宙戦艦「ヤマト」は片仮名です。近ごろ漫画に海底戦艦「やまと」もあるそうです。(この会の後、北朝鮮の「第二大和丸」がデビューしました)。そしてもう一つ日台航路に「大和丸」というのがあって戦艦「大和」の一寸先輩になるのですが、潜水艦の魚雷攻撃で昭和十七年に沈没しています。実は私は昭和六年頃それに乗って台湾から仙台に行ったのです。途中沖縄の慶良間諸島の港に泊まり、沖縄の港をも遠望しました。その時の朝焼けが凄くて、空の色が顕微鏡で組織染色に使うエオジンという赤黄色にそっくりだったことが印象深く残っています。ギリシャ神話では、朝焼けはエオスの神が前日西に沈んだ太陽を早朝馬車に乗せて東に戻すために起こる現象だとされており、エオジン色素の命名はすばらしいと思いました。以上、「大和」にまつわる思い出のあれこれです。

 坂本伍長の日の丸の話は、私の家の隣に陸軍幼年学校に行った同年輩の方がいて、旗日には必ず日章旗を掲げているので、伍長の書かれたものを渡しましたらとても感激して、日の丸のことや「君が代」が相撲の歌ということでは困る、もう少しなんとかしなければ等と話が弾みました。以上です。

 

寄稿文目次へ戻る                         次ページへ