十五分隊の四人組

                 N 水 谷  浩 二   

             

十五分隊の四人組とは、松枝繁之、森 賢司、白水多七及び私の四人である。

この四人のつながりについては、すでに「三七会だより」で何回か書いているが、テレビドラマよろしく總集編という形でまとめてみた。

十五分隊で一番背の低かったのが私で、その次のベッドが白水君、そしてその近くに森君と松枝君がいた。入校したばかりで慣れない辛い生徒生活の中で、お互いに慰め合い、励まし合う仲間が出来るのは当然の成り行きだったと思う。

あれは昭和二十年の正月休みの時だった。松枝君のご父君が海軍軍人で、当時久里浜に住んでおられたので、我々四人は区域外外出の許可をもらって久里浜の松枝君の家まで遊びに行った。ここですっかりご馳走になって、いい気分で帰途に着いたところ、横浜駅の近くで空襲警報が鳴り電車も止まってしまった。そのため一八〇〇の帰校時刻に遅れてしまった。幸い一号の天野生徒が途中で一緒になったので殴られずに済んだ。情状酌量で白帽は免れたが、翌日は外出禁止になった。森君が松枝君のお母さんから頂いたせっかくのケーキを泣く泣く海へ捨てた。その日、篠原清健伍長から週番生徒室に四人が呼び出された。伍長も責任を取って外出を控えられたのである。何事かと思って出頭すると、昨日の始末書を書けということであった。始末書を書くと、伍長が日本刀を抜いて、「これで血判を押せ。俺も血判を押す」と言われ、最初に小指を切ろうとされたが、うまく切れない。そこでそのままになってしまった。

そして、一月末に垂水に移転したわけだが、間もなく我々のリーダー格であった松枝君が一軒の家を見つけて来て、それを我々四人組は私的クラブとして利用したのである。そこには中年の小母さんが独りで住んでおり、当時のことなので軍人さんということで無償で貸してくれたのである。我々は日曜日ごとにここで落ち合いリラックスした日を過ごした。私はここで名古屋から訪ねてきた祖母や母と会ったし、食料品などもここへ送ってもらったりした。二号になって分隊が別々になってしまったが、この私的クラブでの交流は終戦まで続いた。

名古屋出身の私を除いて、白水、森の両君は佐賀県、松枝君は長崎県佐世保の出身で、終戦の翌年二十一年の夏当時は、白水君は鳥栖市で鉄工所自営、森君は長崎高商生、松枝君は旧制佐賀高生で、三人とも北九州に住んでいた。旧制八高生だった私は、まだ交通事情が悪くキップの入手が困難だった頃だったが、何とかキップを手に入れ、三人を訪ねて北九州まで遊びに行った。三人とも元気だった。白水君は鉄工所の仕事に精出していた。森君の案内で長崎見物をした。一年後の当時も原爆投下の跡は生々しく、三菱の長崎造船所の鉄骨はひん曲がったままであった。虹の松原の近くでお寺の住職をしていた同じ十五分隊の中溝智雄君(故人)にも会い、暫くの歓談ができた。

こうして短い北九州旅行は終わり、帰途に着いた。そして垂水駅で途中下車し、旧海軍経理学校垂水分校へ向かった。ここは元の県立神戸高商になっていた。懐かしくなって一寸中を見せてもらおうと思い事務室に顔を出したら、当直の先生が出てきたので来意を告げたところ、「学校を軍に貸したため後で大変迷惑した。中を見せるわけにはゆかない」と剣もホロロに追い返されてしまった。その足であの私的クラブにも寄った。幸い小母さんは在宅だった。その節お世話になったお礼を述べ、当時の事など暫く雑談して辞去した。

こんな四人の間柄であったが、その後は年賀状のやり取り位でお互いに会うことはなかった。三七会が結成され、毎年全国各地で総会が開催されるようになったが、私のほか誰も出席しなかった。何年か前の広島大会の時に、一別以来初めて白水君と再会した。嬉しくて思わず抱き合った。森君と再会したのは、平成十年十一月、東京総会のあとのエクスカーションで横須賀で一泊した後の横浜駅でである。実に五十二年ぶりのことであった。すでに白髪白眉であったが面影は残っており、すぐ分かった。松枝君と再会したのは、その翌年の浴恩会総会でであった。五十三年ぶりである。佐藤順一君が彼の所へ案内してくれて初めて分かった。当時のイメージ(キリリとした濃い眉、精悍な顔立ち)とはかけ離れ、病気の後遺症か、少し言語障害も起こしていた。

こうして私は他の三君にそれぞれ会うことができたが、四人が一緒に会することはなかなかできなかった。それが実現したのは、漸く平成十四年五月二十七日の海軍記念日、所は熱海の厚生年金会館「ハートピア熱海」でであった。特に白水君が松枝及び森の両君と会うのも五十六年ぶりであった。握手し肩を抱き合い、正に感慨無量であった。

そして、これからは毎年会おうと約束した矢先、松枝君が九月に急逝してしまった。もう四人が揃って再会する日は永久になくなってしまったのである。

 

 

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