「ブーゲンビル戦記」に寄せて

―故藤本威宏海軍主計大尉未亡人に捧ぐ―

                 M 橋 場  昭 二

             

まえがき

去る四月某日、藤本未亡人から思いがけず「ブーゲンビル戦記」(藤本威宏氏著、光人社NF文庫、二〇〇三年四月十六日発行)の寄贈を受けた。元海軍主計科士官の手記を纏めた戦記であり、且つ著者が海軍経理学校二年現役第九期の出身であることを知り、大変な関心を持って一気に読了した。そして、これが今までに読んだ幾つかの単なる戦闘記録やその情景描写ではなく、連続して極限に置かれた人間のリアルな姿、そして飽くなき欲望、それを克服する深淵な叡智、更には人間の尊厳などを改めて学んだような気がしてならない。

この戦記が防衛庁で学生達の教本に転用されているというのも誠にむべなるかなと感ずる次第である。

以下は、私がこの戦記を読み終わって未亡人に書き送ったつたない感想文である。

ちなみに、藤本未亡人とはたまたま愛宕小学校卒の同級生(三七期の故吉松博も同じく同級生)であること、またあとがきを書かれた子息である東京大学教授の隆宏氏は、去る四月二十一日から五回に亘り日本経済新聞夕刊の「人間発見」欄に「モノづくり一直線」なる題で執筆されていることを書き加える。

 

    記

爽やかな風が渡る初夏の候となりましたが、その後お変わりなくお過ごしでしょうか。

先日は藤本威宏氏著の「ブーゲンビル戦記」をご恵贈いただき誠に有り難うございました。同じ海軍経理学校で訓育を受けた者として誠に感銘深く読了させて頂きました。私達は海軍経理学校第三十七期生徒(昭和十九年十月入校、故人となった吉松博も同期生)で所謂「ほんちゃん」でしたが、私達が入校した頃には、藤本主計大尉は、既にブーゲンビルの緑の砂漠と言われたジャングルで死闘を繰り返した後、ブカ島の現地住民の宣撫に奔走されていた訳です。食い扶持を減らすための工員の輸送、ブインからブカまでの六百キロに及ぶ徒歩でのブーゲンビル島の縦断には、ほんとうに頭の下がる思いでした。作戦とはいえ、二年現役の海軍主計大尉が指揮をとらねばならぬ状況だったか、しかも制空権は完全に敵に握られ、戦うに武器なく毎日を絶望的な空爆とマラリア、そして飢餓に曝されながら。若し同じような状況に「ほんちゃん」と自負する我々が置かれたら、これ程見事に任務を全うし得たであろうか、今顧みて忸怩たるものがあります。読了してまず感じたことは、あの激しい戦闘の中、これだけの戦記を残すための記録や資料をよく収集保存されたものだと言うことです。できるようで普通の人にはなかなかできないことではないでしょうか。藤本威宏氏のすべてに改めて敬意を表したいと思います。

そして次に、大学出の優秀な人達の中からえりすぐって選ばれた海軍経理学校二年現役(私達は親しみを込めて[短現]さんと呼んでいましたが)の俊秀なる頭脳が、如何に多くそして何と無為に失われたことかということです。戦争は二度と行ってはならないことを強く強く印象づけられました。

私達は、実戦には幸いにも参加しませんでしたが、この戦記を読んで海軍経理学校在校中にあったいろいろの出来事を懐かしく思い出しています。

品川校舎にいたとき、対岸の石川島造船所が激しい空爆に遭って我々が埋立地に造った防空壕が潰れるのではないかと思われる程揺れたこと、昭和二十年二月、激しい空爆に耐え切れず生徒隊は神戸垂水に移転したこと、垂水校では山の上の陸戦演習だけになってしまったこと、品川校舎では毎朝行われた短艇訓練が月一回になってしまって、しかも訓練を行うためには、垂水から明石まで電車で行って明石港に品川から回送された艇に乗ったこと、垂水の町が空爆でやられ急遽怪我人の救助に向かったが、被害者が水を水をと叫ぶのを心を鬼にして抑えたこと(全身火傷の被害者に水を与えれば直ちに死にいたる)、垂水校では敵戦闘機の銃撃に遭い、たこつぼに飛び込んだが至近弾を何発も喰らい生きた心地がしなかったこと、二十年五月乗艦実習に行き磐手、出雲、八雲に分乗したが、敵グラマンの急襲を受け、戦闘配置につけの号令と戦闘配食が配られ、我々は非戦闘員として一番底のデッキに退避したが、艦の高角砲が果敢に応戦していたこと、など枚挙にいとまなしという感じ。私達は十八歳の紅顔の美少年?でした。

最後に、貴女の夫君威宏氏のご冥福を心よりお祈りして筆を擱きます。

ご恵贈頂いた「戦記」に対するお礼が大変遅くなったこと、何卒御寛容ください。

追伸

ご承知と思いますが、海軍経理学校には生徒、二年現役、練習生を横断する浴恩会なる同窓会があり、毎年総会が開かれています。

平成二年一月一日調として発行された浴恩会名簿には藤本威宏氏が二年現役第九期の逝去会員として名を連ねておられますが、逝去された昭和四十四年十一月には、私は、丸紅のペルー会社から八年にわたる勤務を終えて帰国した後、化学プラント第二課長としてプラント輸出の拡大を目指し、北中南米を走り回っていました。

威宏氏が海軍軍籍に身を置かれ、しかも、海軍経理学校二年現役であったことはつい最近まで知りませんでした。まことに迂闊なことで、氏の謦咳に接することができなかったことを深く残念に思います。ご子息の隆宏氏は、あの戦争における父君の思い出を自らに課せられた「修練の場」ではなかったか、とあとがきに書かれていますが、私は、あまりにも過酷であった修練の場を通して、人間の尊厳をイヤと言うほど教えられた気がしてなりません。

ブカ島の原住民を力で抑圧するのではなく宣撫の道を選んだこと、しかし、与えるに物なく常識的な宣撫の道は全く閉ざされた状況下にあって、原住民の人間としての能力とその人間性に限りない信頼を置いた知的財産の移転が、思わぬ道を開いたのはその例ではなかったでしょうか。         橋 場  昭 二

平成十五年五月八日

藤 本 佳 子 様   

              【平成十六年十二月二十九日永眠】

 

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