経校の思い出

―十二分隊会の交遊を中心に―

                 K 柴 田  昭 朔

 

十二分隊会の開催に至るまで

戦後、経済的、思想的混乱の中で無我夢中で生きていたため、二十年間程は、経校との接点は殆ど無かった。厳しく猛省を加えられたこと、十七歳もそこそこの青年には勿体ない斯界の碩学の謦咳に接したこと、カッター訓練などのきつかったことが、頭の中にこびりついて、何とか早く忘れ去りたい気持ちだった。僅かに、ベッドメイトの田島嘉一郎君と細々と文通し合ったことや、二号同分隊の和波英郎君が、神戸の家にひょっこり訪ねて来られ歓談したほのかな思い出があるだけだ。ただ、新制中学校教諭時代(昭和二十五年)に、父の教え子だった瀧明洋次郎教官が職員室にみえ、吃驚し反射的に直立不動で敬礼をし、暫時、海軍生徒に戻らされた。

とにかく、思想の大波が襲ってきた頃だ。大学予科で、アウグスチヌスの権威・服部英次郎先生や、ギリシャ哲学の北川振一先生の影響が強くあって、キリスト教とプラトン哲学にはまり込み、一方、平等をかざしたマルクス主義が?々と押し寄せ、その流れに呑み込まれていった。『聖書』と『国家』と『資本論』に呪縛された十年だった。だから、京都の会社に入って、経理部主計課という少し郷愁を覚える名の部署についたが、仕事そこのけで、「京都労音」の役員として精を出し、クラシック音楽・古典オペラに魅せられ、合唱(ショスタコーヴィッチの「森の歌」)に加わったり、また読書サークルや組合活動をしてみたりで『極めて不良社員』のレッテルを貼られ、東京に飛ばされることになる。

沈滞していた京都から東京に移ると、正に別世界、高度成長期を目前にして、社会、経済は激しく揺れ動いていた。「思想」などくそくらえだ。酷しい商戦に勝ち抜かねば生きられない。猛烈社員への蛻変開始だ。夜の西銀座、赤坂を荒らし回った。東宮御所、昭和宮殿、国際見本市会場、検察総合庁舎、厚生省(旧海軍省)、東京オリンピックの諸会場、気象庁庁舎など、面白いほど受注ができたが、今となると、良き思い出だ。

そんな中で、新橋の喫茶店「ロア」でクラスの糾合を図るべく、桜井和彦君や日下信之君、由良巖君らに出会った記憶が漠然とある。また、ILOで活躍していた本田親克君に偶然出会って『少数精鋭主義』で名を売った富田岩芳さん(三三期)に紹介してもらったり、お互い家を訪ねたりした。義伯父の親友(海軍中将榎本隆一郎氏)が日本瓦斯化学の社長をしていて、何度か伺い、吾郷喜重教官や平岩千代治氏(三二期)や内田雄介氏(三五期)など、経校の先輩が十人も在籍していて驚いたこともある。

日下君の肝煎りで開かれた昭和三十七年の第一回三七会に、田島、本田両君と誘い合って出席したところ、戦艦大和の主計長堀井正さん(二五期)や日本銀行の吉田満さん(註)、通産省の牧野隆守さん(三六期)が出席しておられ、吉田さんから『大和の最期』の様子を生々しく伺い、いきなり「海軍」が蘇えった。

(註)吉田満氏の父君吉田茂氏は、日新電機の特約店主だったのでかなり交際はあったが、息子さんが満氏とは知らず、その翌日会ったところ、疎開先の信州で親しくしていた吉川英治氏に息子の原稿を見てもらって、一部を推敲してもらった上で、吉川英治氏に勧められて出版に踏み切ったのだよと知らされた。

それからである。勃然と経校時代が懐かしく、「海軍」にのめりこみはじめた。垂水で「貴官らに二十年間の休暇を与える」と宣告され、丁度二十年が経っていた。昭和四十年、第一回浴恩会総会が目黒の雅叙園で開かれたとき、出席された紺野校長の矍鑠たる姿に接し、厚かましく名刺を差し出して、ゆっくり挨拶を交わすことができた。安保で揺れていた当時の世相からは隔絶し、全く異質ではあったが、何か知らぬ日本の良きものがしっかりと温存され、健在であることに感銘を受けた。その頃、いつだったか、兵校出身の友人に誘われて、横須賀に集まり、三笠見学後、護衛艦で晴海埠頭まで体験航海をした。その折、偶然にも十二分隊伍長の大野義夫さん、二号の岩下宏さんから「どうだ、品川の十二分隊会を開いてみたら。俺も協力するよ」と誘い(なかば指示)を受け、当時交遊を深めていた星野輝雄君と相計って計画を進めることになる。

分隊監事の松枝美久少佐にもご出席を求めたが、鹿児島の南日本放送の社長に就かれたばかりで、超多忙のため欠席となり、その代わりに毛筆による達筆の書簡を頂いた。(その中で鹿児島在住の元経校生が「桜経会」に結集し、絆を深めていることを知らされた)。松枝さんはその後間もなく、昭和五十七年に六十五歳で急逝され、盛大な葬儀には十二分隊一同で弔意を捧げた。

会合の場所は、特攻戦士だった深田秀明氏(兵七三期)が経営していた新宿古鷹ビルの「養浩館」と決めた。昭和五十三年十一月二十二日、戦後初の分隊会で、三十三年の空白があり、果たして何名出席になるかと案じていたところ、十三名が、遠くは九州からも駆けつけ、第一回分隊会は沸きに沸いた。予定時間をオーバーし、語り足らない者は二次会、銀座「ヨーソロ」(註)に出かける始末。

(註)「ヨーソロ」は銀座のバーで、主計兵曹金森幸男氏が経営し、中曽根康弘氏を始め旧ネービーの溜まり場であった。なお金森氏は、占領軍将校クラブだった「エスポワール」のマスターを務めた粋人。

出席は一号 大野義夫、満岡春雄、山内一夫 三名

二号 岩下宏、忍足文雄、半沢治雄 三名

三号 鎌塚五郎、野昭三(福岡)、塚本令史(宮崎)廣川東一、星野輝雄、宮崎正時、柴田昭朔の七名

 この頃は、全員が知命を過ぎ、官公庁や会社の要職に就いており、やや落ち着きもできてきた頃であったが、それだけに多忙で、毎年開催は無理、二〜三年に一度は分隊会を開こう、と決まった。この分隊会がその後、国内旅行から毎年の海外分隊会に発展し、夫妻同伴が一般的になり、お互い親戚同然の親しさにまでなるとは思ってもいなかった。ここで、万年世話役を仰せつかった立場で、十二分隊会の歴史を、若干のエピソードなどを添え、記録に止めておくことにしたい。

 連綿と続いた十二分隊会

 第二回分隊会(昭和五六・一一)では、品川校、築地校跡を視察した。両校とも変貌を遂げていたが、所々に往時の跡が残っており感慨に浸る。着せ替えをした品川校の柔道場、カッター数隻を残すダビッド、築地校は僅かのダビッドに昔の面影をほのかに残すだけ。この会は、島田、田島の初参加を含め八名。

 第三回、第四回は、集まりやすい新宿住友クラブで、昭和五八・二と昭和六〇・四に開催。初参加二号小松生徒(佐賀から)、三号は先任の滝川、小川、田中、中瀬、牧野、本田が初めて参加し、それぞれ十一名、十名の集まりとなった。

 昭和六十一年の第五回からは、夫人同伴、一泊旅行が始まる。伍長補の安達勝さん(註)の発案で、京都五山の送り火見学を兼ねて京都府警の寮を借り切り、夫人六名を含む二十人が集まり、賑やかな会合になった。初参加は、二号狩野生徒、堤田生徒(広島から)、三号松下。残念なことに安達さんが直前に病に冒され欠席になった。

(註)安達勝さんは京都府出納長のかたわら、アララギの歌人で茂吉、文明、繁を師とし、多くの短歌を歌集『再発』に残している。人間愛と信念に溢れ、特に夫人への感謝の気持ちをうたった歌には、心打たれるものがある。数首を披露しておきたい。

戦死せし兄の遺影のいと若し並びて立てる吾も幼し(兄はビルマで戦死)

片道に二時間もかかる病院に毎日日にち通いくる妻

自動車に妻撥ねらるるの電報(しらせ)受くおろおろとして脳痺れ来ぬ

憤りこらえるすべも無き故に軍刀振りき航空隊に(終戦の日)

海軍の友は良きかな続々と見舞いに来りまた文呉るる

なお、十二分隊には詩集『純白の意思』で注目された詩人、大滝安吉氏(三六期)がおられたが、惜しまれながら世を去っている。

 第六回(昭和六二・九)は熱海で、第七回(昭和六三・六)は奥能登めぐりで、夫々八名、十六名の出席があり、奥能登では三六期塗師勲さんが顔を見せてくれた。

 この頃,『最後の海軍士官』(珊瑚会刊)に刺激され、岩下さん、島田君の発案で十二分隊会誌の発行が決まり、略一年がかりであったが、『航跡』を五十部印刷製本し、分隊全員に配布することができた。戦時中のものを含む五十葉の写真と、四十四名の寄稿をまとめたもので、B5版百九十八頁の冊子である。十五分隊誌『若鮎』に続く文集で、随筆、随想、十二分隊関係記録、追悼及び各種資料から成っており、萬袋潔、佐藤政行、木村忠雄、瀧明洋次郎の四教官からも投稿を頂いた。

 第八回(平成一・六)は足摺岬などを巡る三日間の旅、十七名参加。須崎市在住の松岡敏之君(三分隊)が出迎え便宜を図ってくれた。この回から、神山喜代子さん(註)の特別参加が始まり、皆にとけ込んで花を添えてくれることになる。気に入ったのか、死去(平成十二年)されるまで、十二分隊会旅行にすべて出席された。

(註)神山喜代子(芸名半田則子)さんは、新橋で小料理店「信楽」を経営し、ひところは東京三七会の例会場となっていた。私は、会社と近いこともあり、頻繁に利用したが、牛尾教官、林 大文官教授もよく顔を見せていた。彼女の埼玉の家は、趣味の陶磁器で一階を飾っていたが、二階には三七会の旅行写真アルバムなど多くの経校関係の記念品を並べ、「私は海軍さんが大好きで、これは私の宝物ヨ」と誇っていた。第二の山本直枝さん(横須賀「小松」『パイン』のママ)になりたかったようだ。

 第九回(平成二・七)は四日間隠岐の島を訪ね、クルージングを楽しんだが、日下信之君が特別参加し二十二名の大部隊になった。日下君は「旅行記」に感想文を寄稿してくれ、次のように述べた。

 「:(前略):私は三七会・浴恩会など海軍関係の会合では、殆ど世話役を仰せつかり、司会者を業としてきましたので、落ち着いて飲むということも少なく、出席者にしゃべらせることと宴会を盛り上げることが役目で、自ら前に出ることは殆ど無かったのですが:(中略):すっかり羽目を外してしまいました。雰囲気にのまれて本性が現れたのでしょうか:(中略):まぶたに焼きついたあの夕日を追いかけてのサンセットクルージングの情景を思い出しながら:(後略):」と。

 第一〇回(平成三・一一)は、京都の三尾(栂尾山高山寺、高尾山神護寺、槙尾山西明寺)の真紅の紅葉に酔い、奈良の鄙びた岩船寺、浄瑠璃寺を訪ね、石仏、磨崖仏の素朴な情緒を満喫した。参加は十九名。

第一一回(平成四・七)、愈々海外分隊会旅行が始まる。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争を避けて、北欧に行くことが決まる。特別参加の三五期飯沼幸雄さんご夫妻、五分隊片岡泰昌君を含む二十名、九日間の旅だ。万全を期すため、中瀬君と共に、面倒ではあったが、在京の大使館を訪ね、各種資料を入手、ユニークな旅行にすべく心掛けた。(手作り旅行の面白さであるが、事前の大使館ないし各国観光局訪問は、かなり有益で、国柄も分かり、以後ずっと続けた)。ヘルシンキの市庁舎見学、ノルウエーの最も深いフィヨルドに遊ぶこと、及びパリの超一流料亭ラ・トゥール・ダルジャンで鴨料理を味わい、イルド・フランスでパリ郊外の美を鑑賞することの二つを柱とした。

ストックホルムの王宮を臨むグランドホテル(ノーベル賞受賞者が泊まるところ)の一室を借り切って、大軍艦旗の下で夕食から始まる。飯沼さん持参のビデオが回り、状況が写し撮られる。ノルウエーのフィヨルドは、神秘的でもあった。ラ・トゥール・ダルジャンで、一八九〇年開店以来七七七二七番目に当たる鴨が我々の前に並べられると、思わず拍手だ。福田赴夫氏は少し若いナンバーの鴨を食べている記録が残っていたし、昭和天皇の記録もある。正装はしたものの、いささか不釣り合いなロートルたちだと、後ろに立ったボーイたちは思ったに違いない。後日、飯沼さんがビデオ二巻に編集され、参加者全員が頂いたが、分に過ぎたことをすると冷汗ものだと思い知った次第。帰路シベリア上空で三十分ほど、飛行機のコックピットに特別に入り、パイロットの気分に浸ったのは、片岡君の姪御さん(スチュアデス)の心遣いによるらしい。

第一二回(平成五・四)、四日間は青森分隊会とし、五分隊平井一郎君(海上自衛隊青森友の会会長)の心尽くしで、大湊総監部で自衛艦ゆうぐもに乗艦したりしたが、太宰治生家の「斜陽館」を借り切り分隊会が開催でき、印象を強めた。この時参加は二十名。不気味だった恐山も忘れられない。

第一三回(平成六・七)カナダ分隊会からは、三五期蟹山久登さんご夫妻が特別参加、松下君は夫人のみの参加で計十七名(内女性十名という華やかさ)。ヴィクトリア、カナディアンロッキー、レイクルイーズ、バンフからナイヤガラ瀑布と、自然の美しさ、巨大さに圧倒された十日間だった。

第一四回(平成七・六)は、稚内分隊会。知床からオホーツク沿岸を走り、利尻・礼文の秘境巡りは、カナダに続いて北北海道の自然を存分に味わう旅となった。何よりも快晴に恵まれ、旧帝国海軍望楼に上って、遥かに樺太を望見できた。ソ連軍の侵攻を前に自決した電話交換手九人の「乙女たちの碑」に五十年前の八月十五日を想起し、合掌する。

尚、俳人であった神山喜代子さんは、句集『草萌』に、「最北の旅」として二十の句を記録している。その中から。

知床の久弥の歌碑やごめの声   (網走)

海霧消えて今日樺太のよく見える (宗谷岬)

「最後です」と九人乙女夏の霧   

利尻富士映る姫沼緑さす     (利尻島)

雲流るスコトン岬の大花野    (礼文島)

第一六回(平成八・六)の海外分隊会の中心はスイスだ。アルプスを望むインスブルックに軍艦旗が翻る。参加者も二十二名の最多で、スイス、リヒテンシュタイン、オーストリー、北イタリア、南フランス、モナコの六カ国を十一日で回った。銀座で個展を開いたりしている画伯 牧野孝君が、スケッチ画を挿入してくれた旅行記も三十八頁になったが、これとは別に、写真の専門家でもあった本田親克君が解説をつけた八十六葉の美しいスナップを基にA4版豪華写真集も作り上げ、全員が受け取った。

第一八回(平成九・九)は、趣を変え、重慶から長江の三峡下りをした。十一日間の日程で十名参加。旅行会社近ツリがチャーターした就航したばかりの西施号に乗る。その名の通り、優美な船だ(西施は傾国の美人として有名)。所々で下船し、春秋戦国の豪傑たちの史跡を訪れ、三千年の昔を偲ぶ。三峡の険しい自然、迫力ある景観に酔わせられた。中瀬君が朗々と吟じた「李白渝州を下る」は、他の船客からも喝采を受けた。

第一九回(平成一〇・六)は、ハンガリー、チェコ、ドイツの旅九日間。三分隊浜井章三君夫妻の特別参加で十五名となる。内陸国ハンガリーに海軍省があり、ホルティ海軍大将が長く摂政の地位にあったことを知らされた。また、プラハ国立劇場のバルコニー席(最上席)でワグナーのオペラ「タンホイザー」を鑑賞できたことは収穫であった。ベルリン分隊会での浜井君の謡「千秋楽」、軍歌に次いでの四大節の女声合唱には、近くにいたドイツ人も大拍手。旅行記は写真十葉を含む五十頁を超える大冊になった。

ゼミの後輩の滋賀大学経済学部長門脇延行君が、ブタペスト大学で研究し教鞭を執った唯一人の日本人で、我々にハンガリーの社会、経済について話してくれたことは、旅の印象を深めるのに役立った。

第二一回(平成一一・七)はベネルックスツアーを八日間行った。今まで全回出席だった大野伍長夫妻、中瀬君、神山さんが体調不全で不参加で寂しくなったが、高野未亡人、浜崎未亡人が加わり十名の旅になる。アムステルダム国立美術館で、レンブラントの「夜警」を鑑賞し感動したが、何といっても、町全体が「屋根のない美術館」と言われ、世界文化遺産となっているブルージュの見事なまでの美しさに魅了されたものだ。馬車で行く町並みは、中世ヨーロッパがそのまま上手に保存されている。ローデンバッハの幻想的名作『死都ブリュジュ』は、荷風が絶賛した小説だが、正に「生きている過去」を現実にし、三十数葉の写真とともに、十三世紀から十五世紀の黄金時代を偲ばせるものだ。

ところで第一五回(平成七・一二)、第一七回(平成八・九)、第二〇回(平成一〇・一一)、第二二回(平成一一・九)の分隊会は、様々な都合で、旅行不参加の方の出席を求め、東京で開催したが、夫々二十〜二十四名が全国各地から新宿に集まり、戦後の生き様、懐旧談、健康談義に花が咲き、一回四時間を超えるものもあった。二号の曲渕景敏さんや佐藤善治君、浜崎正信君も戦後初めて参加、また第二〇回には星野輝雄君が、突然現れ、喝采を受けたりした。

しかし、古稀を過ぎる頃になると、死と向き合う人間の哀しさを次々と味わうことになる。特に、十二分隊会をここまで盛り上げてくれ、団結を不動のものにしてくれた中瀬君、岩下さんの相次いでの訃報には、言葉も無かった。

神戸六甲山上のグランドホテル六甲スカイヴィラに未亡人をお招きし、平成一三・七と平成一五・五に、お二人の偲ぶ会を開いた。東京、広島、宮崎、福岡からも駆け付けてくれ、延べ四十一名の参加を得た。遺影を前にして、夫々の功績を称え、頌歌「命を捨てて」を合唱、深く冥福を祈った。お二人の遺影から、『十二分隊会よ永遠なれ』の思いがひしひしと伝わってくる。

考えれば、僅か六カ月の十二分隊生活だった。しかし、その六カ月間、良き海軍生徒になろうと切磋琢磨し合った。純粋だったし、一所懸命だった。自然と同志愛的感情も育っていた。これが、戦後かなり経ってからも生き続けていて、三十回近い分隊会が継続される礎だったのだろう。可能な限り、いつまでも、十二分隊会を続けていきたいものである。        (平成一五、八、三〇記)

 

 

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