特殊潜航艇 九軍神

                 F 渡  辺   健

 

二〇〇三年十二月八日の中国新聞(私の住む地方紙)で、「ハワイ真珠湾攻撃九軍神の一人上田兵曹長の生家が広島県山県郡千代田町にある」と紹介されていた。日米開戦・真珠湾攻撃、この昭和十六年、当時十五歳の旧制中学一少年だった私の心にも「戦雲に向かって進む日々」が来たことを覚悟させた。そしてその頃、私は珍しくも日々の出来事を日記帳に留めていたので、この記録文から戦時中の一少年生活の一端を振り返ってみた。―日米開戦当日の日記―

「昭和十六年十二月八日 月曜日 晴」 朝登校して日米開戦を知る。誰の顔も来るべきものが来たの感。期せずして、呉海軍当局の前田機関少佐が甲種予科練生募集に来校して熱弁、日・米・英・露の海軍勢力について講話、今や時局は逼迫重大。

☆ニュース 我方 航空機二十九機・特殊潜航艇五隻不帰

戦果 戦艦五隻撃沈・三隻大破・一隻中破‥‥まさに一少年には「血湧き肉踊る」報道。

○九軍神の発表 やがて開戦から九十日を経た昭和十七年三月七日、特殊潜航艇で攻撃した九人の氏名が軍神として発表され、それは一少年の心に大感銘を与えたようで、一人一人の階級氏名を丁寧に書き取っている。特に上田兵曹長の場合‥‥我が県内からも軍神が出たと感激、「広島県」と添え書きし、更に加えて特潜艇の攻撃図(多分新聞の挿し絵から)も描写している。

○特殊潜航艇のハッチ 旧日記に書き留めているこの描写絵、日頃から歴史物に関心を持っている知人に見てもらったところ、知人曰く―「描かれている風景のうち、艇のハッチを開いて戦果を確認している姿―あれは事実と違うのではないか?私は戦時中、呉海軍工廠で水雷・魚雷製造に携わったことがあるが、その頃、私の見た乗艇情景は、乗務員が乗艇すると、ハッチは頭上から外部の者が閉めていた。もしかすると内部から開くことは不可能だったのでは」との意見。これは超悲壮な話、でも作戦行動中、艇は海面に浮上して周囲を確認する必要もあったのでは?ハッチは内部から開き得る・得ないを含めて、いま少し特潜艇の知識を得ようと思い立った。

○特殊潜航艇の文献  図書館で九軍神関係の文献を調べたところ、

@「月明の湾口」(豊田 穰氏〈海軍物作家〉著)とA「捕虜第一号」(酒巻和男氏著)の二件があった由だが、Aは図書館になく@だけが図書館在庫と判った。「月明の湾口」の著者豊田 穰氏は海兵六九期で、氏の自叙伝によると、太平洋戦争の昭和十八年三月、ソロモン海戦で海に墜ち、漂流中を米艦に収容され捕虜となったが、これより一年四カ月前の開戦当時、特殊潜航艇で真珠湾に出撃、不運にも同戦争の捕虜第一号となった酒巻和男少尉とは同期だとあり、氏の著書で酒巻少尉出撃顛末が次のように紹介されている。

 ハワイ・オアフ島約十五マイルに接近した潜水母艦から五隻の特潜艇が発進したが、その中、酒巻少尉・稲垣二曹搭乗の特潜は最初から不運にもジャイロコンパスが故障、しかし、天佑神助を信じて出撃したという。ところが、島に近付いても真珠湾入口が判らず、位置確認のため潜望鏡を上げたところを、米軍哨戒駆逐艦に発見され、爆雷攻撃を受け艇の各所が損傷、特に魚雷発射機能が故障した。そこで致し方なく真珠湾潜入を断念、攻撃終了後の集合場所と定められていたラナイ島沖(真珠湾口から約百キロ)を目指した。やがてラナイ島沖と思われる海岸に到った場所で座礁したため、二人は艇を脱出、陸に向かって泳いだが二人は海上で力尽き、次に酒巻少尉が意識を回復したときは、米兵に両腕を掴まれていたという。

―ハッチは内部から開き得た―

 開戦当初、特殊潜航艇による攻撃計画を聞いた連合艦隊司令長官山本五十六は、「生還方策のつかない攻撃方法はいけない」と言って、収容の手段を研究させた上で許可を出したという。

 ここで豊田氏著述から、真珠湾進攻の具体的な作戦経緯を覗くと、五隻の潜水艦が夫々一艇の特潜艇を帯同してハワイ・オアフ島真珠湾を目指した。更にこれを詳述すると(一艇に二名乗組み)、イ号第二二潜水艦帯同―岩佐大尉・佐々木一曹、そして同一八号―古野中尉・横山一曹、同一六号―横山中尉・上田二曹、同二〇号―広尾少尉・片山二曹、同二四号―酒巻少尉・稲垣二曹である。

 真珠湾目指して発進した五艇のうち、酒巻艇以外の経過は(湾内に進攻し任務を遂行したが)詳細は不明。唯、翌年三月六日の大本営発表によると、「湾内に進入した攻撃隊は白昼強襲・或いは夜襲して敵艦を轟沈」と報道、午後十一時四十一分、特潜艇の一艇から襲撃成功の無線報告を受けたのを最後に連絡が途絶したという。

○シドニー湾やマダガスカル島に進攻  真珠湾攻撃から半年後の昭和十七年五月三十一日、今度は上記二カ所を標的としている。

 シドニー湾攻撃に当たったのは、イ号二二潜水艦帯同―?松尾大尉・都竹二曹、イ号二七―?中馬大尉・大森一曹、同二四―?伴中尉・芦辺一曹である。

 午後八時、母艦を離れシドニー湾進入を目指した三艇の中、?の中馬艇は、湾口中央を通過しようとして防潜網にかかり前後進全く不能、湾の監視所も潜水艦侵入を感知し対潜行動を始めたので、「万事休す」自爆装置のレバーを引いて爆死を遂げた。?の伴艇は、諸船舶通過のため防潜網の張られていない湾口の南端をすり抜けて進入、米戦艦を発見、二本の魚雷を発射した後、再び湾外に脱出したことまでは、当時の豪軍監視記録で推定できるが、その後の運命は分からない。?の松尾艇は、湾への進入場所を捜すのに手間取り、中馬艇自爆の時刻よりも後で湾内に進入したため、既に警戒厳重で所在を感知され爆雷攻撃を受け、艇の機能を失ったため自決して散った。松尾、中馬艇は間もなく引き揚げられ、六月九日、豪州海軍は松尾大尉ほか三名の柩を日章旗で蔽い、丁重にも海軍最高栄誉葬を執行した。なお、四名の遺骨は同年八月、日本の外交官を日本に返す交換船鎌倉丸に託され、十月に横浜到着、夫々故山の土を踏んだ。また、松尾大尉(熊本出身)の母まつ枝さんが昭和四十二年、シドニーを訪問、大歓迎を受けたことは広く知られている。

 マダガスカル島攻撃もシドニー湾攻撃と同日に特潜攻撃を決行、イ二〇―秋枝大尉・竹本一曹とイ一〇―岩瀬少尉・田一曹―の二艇が進攻と記録されているが、戦果は省略する。

○旧海軍兵学校見学  ここまで述べると、矢張り兵学校を訪問してみなければ話が前に進まない。そこで平成十六年一月三十一日、この季節には珍しい絶好天の日を兵学校に参上した。私達はかって昭和二十年の五月、一度訪れたことはあるが、なにしろ六十年も昔の出来事でありほとんど記憶にない。これを無理に思い出してみると、次のようになる。

@当時、私達海経三七期は一週間の乗艦実習訓練に来呉し、訓練が終わって兵学校にやって来た。そして資料館を拝観したが、なにしろ一週間の実習後なので各人の靴下は汚れており、これを兵学校一号生徒に咎められた。「貴様達!その靴下は何たることか!神聖なる資料館を何と心得とる!猛省を促す!」

A兵学校コレスに案内してもらい、養浩館にて会食、曰く「経校の者はいつもシャバに接していいなー、俺達は時々古鷹山に登り、はるか向こうの列車を眺めて、せめてシャバを思い出すだけ」

Bやがて兵学校見学中、空襲警報発令、我々は急ぎ防空壕に入ったが、今日の目標は岩国燃料廠だったらしく被害はなかったと聞く。

 この度、その防空壕所在を聞いたところ、「今も在り」とのこと。以上が六十年の往時を絞り出した追憶だが、まあ上出来だろう。

○参考館 参考館正面には東郷平八郎元帥・山本五十六元帥・ネルソン提督の遺髪を祀る。膨大な展示資料は、敗戦後、大部分は焼却して証拠隠滅を図り、また、重要な一部は宮島神社等に預けたというが詳細は不明。やがて全国から続々と貴重な資料が寄せられ、現在の蒐集が出来上がった。見学は夫々の人、夫々の感慨をもって接するが、到底短時間見学は無理な話。その中で私が先ず前に行き佇んだのが「日本海海戦の図」。この絵、その昔、山里の小学校入口にも掲げてあった事を思い出す。 長官東郷平八郎・加藤友三郎参謀長・秋山真之参謀・伊地知艦長・安保砲術長‥‥。まさに国の運命をかけた「取り舵一杯」の場面であり、丁度百年前を連想する。

 ところで、今回の資料館見学は数多くの展示中「特殊潜航艇関連」をと目的を定めて参上した。その展示室は、先ず九軍神の紹介から始まり、胸を刺す遺品が並ぶが、中でも酒巻少尉を含む十名の出撃前の写真、武運つたなかった一人の同僚を包むよう、九人の遺影が並んでいると感じ瞼が熱くなる。

 シドニー湾の松尾・中馬大尉や伴中尉、マダガスカル島の秋枝大尉や岩瀬少尉、ソロモンやミンダナオに散った勇者達、一応は本で読んだ人々の名前が並ぶが、そのうち頭がこんがらがって、又の機会に訪れようと参考館を辞す。

○特殊潜航艇 参考館前の展示説明文を読むと、真珠湾攻撃に参加した五隻のうちの一艇が、昭和三十五年六月、真珠湾港外約一マイルの地点で米海軍により発見されて引き揚げられ、翌三十六年、日本に返還され、二十年振り呉の地に帰ったとある。全長二十四メートル・全速力十九ノット・魚雷二・乗員二。 乗員の心中を偲び、二度とこの悲壮兵器登場のない世を願いながら、しばし艇の周囲を見学。

○人間魚雷「回天」 昭和十八年、黒木博司中尉は海軍省に出向き、人間魚雷回天の原案を提出したが、上層部は自殺兵器の採用には反対であり、その後、仁科関夫中尉も加わって具申したが、採り上げられなかった。しかし、昭和十九年二月にトラック環礁(連合艦隊の大前進基地であった)が大空襲をうけて壊滅状態となり、海軍首脳も回天採用を決断、早速実験を開始した。同年八月になって訓練が始まり十一月から出撃開始、ウルシー環礁で米艦に体当たりした仁科大尉を始めとして、敗戦までに百六名の尊い犠牲を出したと記録されている。

○回天記念館見学  春爛漫、桜花の美しい四月一日、かって人間魚雷回天の基地があった現周南市大津島を訪ねた。JR徳山駅南口の徳山港から高速艇に乗船、二十分ほどで人家約百軒の馬島港に到着。港からなだらかな坂道を上ること十五分、海を見下ろして記念館が建つ。この場所に来て先ず目に入ったのが台上に展示の黒々とした回天模型―全長約十五米、直径一米、やっと座った姿勢の操縦で潜望鏡を唯一の頼りとし、敵艦に体当たりをしようとする、まさに必死必殺の人間魚雷であり、「祖国を護る」の一途な使命感に燃えて散った青年の心中を思う。また、回天慰霊碑の側に「回天を搭載して出撃した戦没潜水艦」の石標が建つ。これを読むと沈没した潜水艦は八隻、戦死者は八百十一名。これから考えると、回天出撃で戦死した人百六人に対し、この人々を運ぶため八倍もの人員が消耗されたことになり、戦争の愚かさを改めて深く感じさせる。

 次いで資料館を見学、「さらば祖国よ栄えあれ」 母上様へ・故郷の皆様へ・弟へ‥‥数々の遺品に接する人々夫々の感慨をもって足を止める。顧みると、この時代から既に六十年の歳月が流れ、二度と愚かな戦争はしないと考えた日本人の誓いにも、そろそろ時効到来か、軍靴の響きが再び聞こえる時代となってきた。

○九軍神の一人上田兵曹長の生家を訪ねる。

 六十三年前の一中学少年が、真珠湾攻撃九軍神発表に感激、特に上田兵曹長(広島県)と日記に書き添えたことを、この文章の冒頭で述べた。前々から是非一度その生家を訪ねてみたいと願い、前もって連絡、承知頂いていた。そして、農家田植え期の繁忙も一段落した五月二十五日昼前に参上させてもらった。上田兵曹長は農家の長男だった由、生家は実弟武三氏(兄貴より十七歳年下だったと承る)が継いでおられ、母家の側に建てられた六坪程の遺品館扉を開け、待っておられた。

○上田家遺品館 正面に遺影。向かって右側には連合艦隊司令長官山本五十六揮毫の墨痕鮮やかな「忠誠貫於金石孝悌通於神明―昭和十七年春日 為上田兵曹長遺族 山本五十六書」の軸物、また、他に同長官直筆の封書。 向かって左側には嶋田繁太郎(開戦当時の海軍大臣)の軸物が掛かっている。更に目をひく軸物―右側遺品床に掛けられた海軍大将岡田啓介筆―竜神の絵に添えた「壮烈泣鬼神」の揮毫。棚の上には当時の戦況や世情を伝える朝日新聞のファイル(中でも「軍神の母特集」)が戦時中の軍国の母をよく伝えている。次いで左側ガラス張り棚を拝見すると、これも数々の資料中、兵曹長の厳父上田市右衛門様宛で、海軍中尉中馬兼四の毛筆書状が目を奪った。(中馬中尉とはシドニー湾攻撃で紹介した人)

 内容を拝見すると、当時代武人の部下に対する温情、同僚との約束遂行などが述べられているので概要を紹介する。

「横山中尉(上田兵曹と同艇)が出陣の朝、『若し私が戦死したらこれを開いてくれ』と一通の封書を私に託しました。やがて彼は武運つたなく戦死したとの報を受けたので、預かった封書を開いたところ、中に遺書と金子が入っており、『この金子、上田兵曹の家と私の家とに半分宛送ってもらいたい』と名刺に書き添えてありました。 故人の遺言を守り此処に御送金致します。貴殿の御子息―海軍として貴重な人物を失いましたが、必ずや彼の英霊は帝国海軍の大生命として亡びない事と確信しております。最後に上田兵曹のご冥福をお祈り申し上げます。昭和十七年二月二十五日」と認めてある。これより十日後の三月七日に九人の特潜乗組員は軍神として発表、そして更に二カ月後の五月三十一日には、手紙を届けた中馬中尉もシドニー湾に散華した。

 中馬中尉書簡の横には銃後を護る国民の願いの一つであった千人針が添えられている。贈り主は、愛国婦人会佐賀県支部佐賀県立唐津高等女学校愛国子女団・佐賀県立伊萬里高等女学校愛国子女団と書き込まれている。まだまだ書き足りないことが沢山あるのだが、この上田家遺品館を拝見していると、太平洋戦争当時の貴重な縮図の中に佇んで、当時の一農村の歴史に遭遇した感じがする。

○軍神横山正治海軍少佐(鹿児島二中出身) 戦時中、私の中学へ広島高師卒の若い先生が赴任された。その先生、「俺は鹿児島二中出身で軍神横山少佐と同じクラス、親友だった」が自慢の種だった。こんな次第で横山少佐のことは頭の中にあったから、先の中馬中尉書簡を記述している折、このことを、鹿児島二中出身三七期の人があれば伝えてみたいと考え、「三七会名簿 平成十五年」を調べたところ、加藤慶之助・中村明治・堀之内功の諸兄が同二中出身と判った。そこで早速、中村・堀之内の両君に通信、(加藤君は三号時代同分隊―六年前没)両君から丁重な返信を頂いた。堀之内君からは、「横山少佐軍神はそれこそ県立二中の誇りだった。生家の前を陸戦教練の帰りに通過する時はいつも、『歩調とれ』と靴音を一にして礼を捧げたものだ」との文面だった。

以上、いろいろ述べたが、最後に、上田家遺品館で拝見した岡田啓介海軍大将の軸物、これを思い出しながら「海軍思い出すまま」岡田貞寛氏著を机上に置き、折にふれ拝読している。

 

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