足立教官のこと

                 F 田  中   明

 

以下に記したことを、私はこれまでにミニコミに二度書いている。従って、同じことを何度も書くのは控えるべきかとも思った。しかし、クラスの文集総集編となると、何度も出せるものではないし、私にとっての経理学校は、このことを抜きにして語り尽くせない。だから寄稿となると、どうしてもこのことを書いておきたいので、もう一度書かせてもらう。二号のときの分隊監事兼教官だった足立順二郎主計大尉のことである。

敗戦の年の四月に赴任してきた足立教官は、文人風の人という印象だった。分隊日誌に生徒が下手な短歌を書いたりすると(みんなよくやったものだ)、半ば呆れながら、批評を惜しまなかった。空襲に遭った民家の消火に行った帰り、明石海峡と淡路島を見下ろす坂道にさしかかると、休憩かたがた、しばらく眼下の秀麗な風景を眺めさせ、「日本は詩の国か、絵の国か」といった質問を投げかけられたりした。

教官は、孫子の研究家でもあった。孫子を三度筆写したと言い、雨で戸外訓練が座学に変わったときは、偉大な兵法家・孫子の話をするのが常だった。そして、「アメリカは孫子の言う通りにやってきている」と付け加えるのが常だった。

初め私は生意気にも、孫子マニアが趣味を吹聴している、という程度にしか聞いていなかった。だが、それが二度、三度と続き、その度に、「アメリカは孫子の言う通りにやってきている」と聞かされると、「これは」と思った。孫子が偉大な兵法家であり、アメリカがその言う通りにやってきているとなると、この戦争の結末は我々の敗北になるということではないか。教官はそれを予想し、我々に心の備えを説いているのだと思った。だが、疎開先の水の悪さからくる下痢と、防空壕掘りに疲れた頭では、それ以上のことを考える余裕はなかった。「戦況は悪い。勝機は来そうもない。でも負けるとは思いたくないなあ」といった言葉を交わしているくらいだった。

そうしているうちに八月十五日がやってきた。あの日の玉音放送は聴き取りにくかったが、日本が敗れたことだけは分かった。そのとき自分が何を思ったかは、いま定かでない。その後の教官の姿が、あまりに強烈に刻みつけられて、他の記憶は吹っ飛んでいる。  

放送が終わったとき、分隊の右手の方からウオォーッという猛獣の断末魔の呻きに似た声が起こった。一瞬のことだったが、はらわたを裂くような凄まじさに、私はよろめくような思いをした。

解散になって、そちらへ行くと、足立教官が軍刀を前につき、うつむいて嗚咽をこらえながら、涙をしたたらせていた。乾いた土にそれが点々と続いていた。

分隊に戻っても、私には教官の姿が焼きついて離れなかった。敗北を予想していた人が、最も敗北を悲しんだのである。その姿は、今も折に触れて私の胸に浮かぶ。戦後、「俺には敗戦が分かっていた」と得意げに語る人間にはよく出くわしたが、私にはそれらの人がひどく下司に見えて仕方がなかった。彼らには命がけで戦い、命がけで考える人間が生み出す高貴な魂というものがない。

玉音放送の翌々日、教官は分隊員を集めて、沈鬱な面持ちでぽつりぽつりと、しかし、極めて理性的な訓示をした。

「我々は敗戦という事態に直面した。今後の日本がどうなるか、誰も分からない。もちろん私も分からない。しかし、一つだけ言えるのは、戦後は戦勝国も敗戦国も、ひとしく道義が荒廃するということだ。その荒廃は敗戦国の方がひどいのが常である。だから、我々は、その荒廃する下降カーブの角度を少しでも少なくする努力をしよう。もし、その下降線の角度が、戦勝国のそれよりも小さく、両者の線がクロスするなら、日本は必ず生き返ることができる」。   「では、そのための具体的方法としては、何があるだろうか。それはみんながそれぞれ考えて欲しいが、私は国語を大事にすることが、その王道だと思う」。 

玉音放送に慟哭してから二日の間、考え抜いた言葉だったであろう。それにしても、敗戦直後にこれだけのことが語れた人が、どれだけいただろうか。その後の長い年月、さまざまな人のさまざまな言辞に接したが、これを超えるものにはぶっつからなかった。戦後、三十年ぶりに分隊会が開かれ、足立教官にお会いしたとき、あのときは二十九歳だったと聞いて驚いたものである。

敗戦は辛い経験だったが、経理学校にいたおかげで、貴重な贈り物を得ることができたと、七十七歳の今、しみじみ思う。

              

 

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